橋の由来
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1756年(宝暦6年)に瑞光寺4代目住職・潭住知忍(たんじゅうちにん)が、南紀太地浦(現在の和歌山県太地町)に行脚した。太地の村人は捕鯨で生計を立てていたが、折からの不漁のために食べるものにも困っている状況だった。村の代表者が潭住に豊漁祈願を依頼したものの、潭住は「殺生は仏教の教えに背く」として一度は断った。しかし村人の困っている様子を見て豊漁祈願に応じることにした。 潭住が祈願を始めたところ豊漁となり、村の危機は解決した。後日、村人は瑞光寺を訪問し、お礼として黄金30両とクジラの骨18本を寄進した。潭住がクジラの供養のために、クジラの骨を使って橋を造ったことが、雪鯨橋の始まりとなった。
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橋の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/05 10:37 UTC 版)
1224年(貞応3年)には、この地に今橋が架けられていたと伝えられている。1570年(元亀元年)、徳川氏の武将酒井忠次が吉田川の関屋口から下地の間に土橋の吉田大橋を架けた。その後、吉田城城主となった池田輝政が土橋を廃して下流(西側)の船町に木橋の吉田大橋を架けた。江戸時代には幕府が管理する長さ120間の東海道屈指の大橋であった。明治時代に架け替えられた際に名称を豊橋に変更した。昭和に入ると国道1号は上流(東側)に新たに架橋された吉田大橋を通り、豊橋を通るかつての東海道は愛知県道496号白鳥豊橋線となった。
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