青流時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/27 14:39 UTC 版)
寛文3年(1663年)大坂に生まれる。当初は青流と号し、弟と共に談林派岡西惟中に師事した。延宝9年(1681年)、讃岐国観音寺興昌寺に山崎宗鑑創建の一夜庵が再建されるに当たり、8月24日に開かれた百韻連衆に加わり、『一夜庵建立縁起』に入句したのが確認できる最初の活動である。 元禄7年(1694年)頃堺に移住し、元禄7年(1694年)9月14日畦止亭における句会では松尾芭蕉と接した、この後自身が病床に就く間、芭蕉は翌月世を去り、一度きりの対面となった。元禄8年(1695年)『住吉物語』を撰じた。この頃には師惟中は俳壇から遠ざっており、以降は専ら椎本才麿の撰集に入句する。 元禄14年(1701年)、芭蕉の遺風を慕い、紀伊國屋文左衛門を頼って江戸に移住、宝井其角、松木淡々等と交わった。宝永4年(1707年)其角死去に際し、追善句集『類柑子』編纂に参画する。宝永6年(1709年)5月、貴志沾洲、堀内仙鶴等と大和国に遊んだ。正徳元年(1711年)冬、隅田川畔の庵崎と呼ばれた地の内、向島弘福寺門前に有無庵を構えた。庵号は在原業平『土佐日記』において隅田川で詠まれた句で、言問橋の由来ともなった「名にし負はゞいざ言問はむ都鳥我が思ふ人はありやなしやと」に由来する。
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