椎本才麿
江戸時代中期の俳人。大和国宇陀郡の人。谷氏。初名は則武。通称は八郎右衛門。号は旧徳・西丸・松笠軒・才丸。井原西鶴に学んだのち、江戸で松尾芭蕉らと交流をもった。のちに大坂天満に住し、大坂俳壇の重鎮となる。元文3年(1738)歿、83才。
椎本才麿
椎本才麿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 21:25 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動椎本 才麿(しいのもと さいまろ、1656年 - 1738年1月2日)は、江戸時代前期〜中期の俳人[1][2][3]。本姓は谷氏か。通称は八郎右衛門。号は、則武、西丸、才丸、旧徳、松笠軒、一切経堂、春理斎、狂六堂など。
人物
大和国宇陀に生まれ、宇陀城主織田伊豆守の家老佐々木主水の養子となったが、落ち度による浪人したとされる[4]。はじめ山本西武門に入り、西武の一字をもらい、則武と号す[4]。寛文年間には井原西鶴に師事し、西鶴から一字もらって西丸と号す[4]。1677年(延宝5年)に江戸に下り、漢詩文調の流行に伴って、松尾芭蕉や蕉門との交流が深まり、宝井其角などとも交流を深めるが、漢詩文調の衰退によって疎遠となる[4]。1689年(元禄2年)冬に大阪に入り、以後生涯を大阪で過ごす[4]。上島鬼貫や小西来山の後ろ盾を得て、大阪俳壇での地位を固め、岡西惟中や来山の俳人を取り込み、伊丹俳壇にも勢力を伸ばした[4]。1736年(享保20年)から病床に伏し、1738年(元文3年)正月2日に没した[4]。
作品
- 『椎の葉』(1689年(元禄2年))
- 『後しゐの葉』(1689年(元禄2年))
- 『うきぎ』(1700年(元禄13年))
- 『浪花八百韻』(1713年(正徳3年)以前刊)
- 『千葉集』(1719年(享保3年)跋)
- 芳室撰『阿女』(1720年(享保4年)序)
- 『続千葉集』(1731年(享保15年))
- 素外編『狂六堂才麿発句抜萃』(1785年(天明5年))
脚注
椎本才麿と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
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