青海という地域的枠組みの成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/04 03:00 UTC 版)
「青海」の記事における「青海という地域的枠組みの成立」の解説
チベット高原の中央部には、七十九族と総称されるチベット系・モンゴル系の遊牧民集団が居住していた。 この集団は、1732年、タンラ山脈を境界として南北に分割されることとなり、北方の「四十族」は西寧の、南方の「三十九族」は西蔵に所属することとなった。 ここに、グシ・ハン一族が領有する青海草原と、その南に隣接して「四十族」が居住・分布するカム地方北部(チベット系遊牧民の領主ナンチェン王(ནང་ཆེན་རྒྱལ་པོ།)の所領)をまとめて「青海」という地域的枠組みが設定されることとなった。 清朝時代の青海地方は、藩部と位置づけられ、甘粛の西寧に駐箚する西寧弁事大臣を通じ、理藩院の管轄を受けた。
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