1959年-1972年: デトロイト
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「モータウン」の記事における「1959年-1972年: デトロイト」の解説
初期のタムラ/モータウン所属アーティストにはメイブル・ジョン、エディ・ホランド、メアリー・ウェルズなどがいた。ゴーディ自らが発掘したスモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズが1960年に『Shop Around』で『ビルボード』誌R&Bチャート第1位、全米チャート第2位を獲得した。これはタムラにとって最初のミリオン・セラーとなった。1960年4月14日、モータウンとタムラ・レコードは合併してモータウン・レコード・コーポレーションとなった。1年後、マーヴェレッツが『プリーズ・ミスター・ポストマン』でタムラ初のポップ・チャート第1位を獲得した。1960年代中期までにロビンソン、A&Rチーフのウィリアム"ミッキー"スティーヴンソン、ブライアン・ホランド、ラモント・ドジャー、ノーマン・ホィットフィールドなどの作曲家やプロデューサーの尽力により大型レーベルへと成長していった。 1961年から1971年、モータウンの曲がトップ・テンに110曲がランクインした。この時期モータウンにはダイアナ・ロス&スプリームス、フォー・トップス、ジャクソン5などが所属し、タムラではスティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ、マーヴェレッツ、ミラクルズがヒット曲を重ねていた。最初はモータウンとタムラの2つのレーベルのみだったが、さらにいくつかのレーベルを所有するようになった。自身の名を冠した第3のレーベル「ゴーディ」(当初は「ミラクル」と呼ばれていた)はテンプテーションズ、コントゥアーズ、マーサ&ザ・ヴァンデラスなどが所属していた。第4のレーベル「V.I.P.」はヴェルヴェレッツ、スピナーズ、モニターズ、クリス・クラークなどがレコードをリリースしていた。 第5のレーベル「ソウル」はジュニア・ウォーカー&ザ・オール・スターズ、ジミー・ラフィン、ショーティ・ロング、オリジナルズ、グラディス・ナイト&ザ・ピップス(モータウン以前にヴィージェイ・レコードでザ・ピップスとしてすでに成功していた)などが所属していた。他に「ワークショップ・ジャズ」(ジャズ)、「メル・オー・ディ」(R&Bからカントリー)、バンドのレア・アースが所属する「レア・アース」(ロック)など様々なジャンルのレーベルも所有するようになった。モータウンの音楽は「The Sound of Young America」(新しい時代のアメリカの音楽)のスローガンの元に黒人や白人に関わらず広い受け手に人気となった。 スモーキー・ロビンソンはモータウンによる文化的影響について以下のように語った: 1960年代には音楽活動だけでなく歴史を変えていることにまだ気付いていなかった。しかし曲が世界中に知れ渡るようになって気が付いた。私たちが架けた橋は、音楽において人種問題などの壁を取り除くことに気付いた。私はこの時代を生きて気付いた。モータウン初期に南部へ行っていたら観客は差別されただろう。その後モータウンの音楽が広がり、観客は差別されることなく、子供たちは手を取り合って踊っていた。 1967年、ベリー・ゴーディはこれまでの住居を姉アナとのちの夫マーヴィン・ゲイに譲り、デトロイトのボストン・エディソン歴史地区に邸宅を構え「モータウン・マンション」と呼ばれるようになった。ちなみに以前の住居はゲイのアルバム『ホワッツ・ゴーイン・オン』のカバーにおさめられている。1968年、ゴーディはウッドウォード通りと州間高速道路75号線の交差点にあったドノヴァン・ビルを購入し、モータウンのデトロイト事務所をここに移転した(2006年1月、ドノヴァン・ビルは第40回スーパーボウルの駐車場確保のため取り壊された)。同年、ゴーディはゴールデン・ワールド・レコードを買収し、このスタジオを「スタジオB」としてヒッツヴィルのスタジオを「スタジオA」とした。 イギリスではモータウンのレコードは様々なレーベルでリリースされていた。第1のレーベルは「ロンドン」で、ミラクルズの『Shop Around』、『Who's Lovin' You』、『Ain't It Baby』のみがリリースされた。次のレーベルは「フォンタナ」で、マーヴェレッツの『プリーズ・ミスター・ポストマン』を含む4曲のみがリリースされた。その後のレーベルは「オリオール・アメリカン」でリトル・スティヴィの『Fingertips』など多くの曲がリリースされた。1963年、モータウンはEMIの「ステートサイド」と契約し、スプリームスの『愛はどこへ行ったの』、メアリー・ウェルズの『My Guy』がモータウンにとって、イギリスでの初のトップ20ヒットとなった。最終的にEMIは「タムラ・モータウン」を設立し、1965年3月にリリースされたスプリームスの『ストップ・イン・ザ・ネイム・オブ・ラヴ』がタムラ・モータウン初のレコードとなった。 ファミリー企業のインディペンデント・レーベルを、10年で大企業にしたという意味で、ゴーディはアメリカン・ドリームの体現者である。黒人としてそれをやり遂げたことは当時として画期的だった。その企業活動の原点は、社長が"The Sound of Young America"のスローガンの元に綿密に描いた戦略に基づく、広い受け手を狙った音楽作りである。3人組作詞作曲家チーム、 ホーランド=ドジャー=ホーランド(H-D-H)など専属ソングライターたちによるポップかつ時代の空気を反映した楽曲、ベーシストのキャロル・ケイ、ジェームス・ジェマーソンなどジャズ的なセンスも備えたスタジオ・ミュージシャンのユニット、ファンク・ブラザース(英語版)の演奏、ビートを強調するタンバリンの音、実力とスター性を備えたシンガーたちの歌唱およびゴスペル起源であるコールアンドレスポンスの掛け合い的ハーモニーからなる音楽は、モータウン・サウンドと呼ばれ、1960 - 1970年代において、人種を問わず大いに支持された。シンガーやミュージシャンたちは、ゴーディの方針に従い、洗練された衣装をまとい上品に振る舞いながら、『エド・サリヴァン・ショー』など、多くのテレビ音楽番組に盛んに出演し、それまでのR&Bの泥臭いイメージを一掃した。モータウン・サウンドは、60年代にはビートルズに劣らない人気を得て、ポピュラー音楽の中心的存在となった。 モータウンのヒット曲は、時代を経ても常にジャンルを問わず、ほかのアーティストにカバーされ続けているが、H-D-Hは、楽曲印税についての不満がもとで1968年にはモータウンを離れ、同社に対して訴訟を起こしている。
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