第二次世界大戦後~1990年代
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「ゼネラルモーターズ」の記事における「第二次世界大戦後~1990年代」の解説
戦後、1950年代にはGMはアメリカ最大の会社となり、1953年には社長チャールズ・E・ウィルソンはアイゼンハワー政権の国防長官となり、副社長のハーロー・カーティスが社長に就任した。カーティスの下で、1955年12月末には、GMはアメリカで最初に年10億ドル以上を稼ぐ企業となった。 1959年、GMの大型建設機械部門であるユークリッド・トラックス(英語版)が生産するホウルトラックや造成用機器が市場を独占し反トラストを疑われアメリカ合衆国司法省長官ウィリアム・ピアース・ロジャース(英語版)の号令の下クレイトン法違反で告発される。8年続いた裁判の末、GMはユークリッドブランドの売却に合意し、アメリカ国内での建設機械販売を1968年から1972年の4年間禁止された。この訴訟の裏でGMは新たに建設機械部門Terexを設立、判決に違反しない様、売却を免れていたカナダとスコットランドのユークリッドの工場でトラックの生産を行い、これらにテレックスのブランド名を付けて販売するバッジエンジニアリングの様な手法でこの4年間をしのいだ。 1970年代以降、オイルショックによって小型車の需要が高まると、それまでアメリカ国内で開発して来た小型車(コーヴェア、ヴェガ等)をオペル、いすゞ等の開発協力を得たモデル(『Tカー』、『Jカー』等)に代替するなどの販売戦略の転換が進められたが、品質と生産性の悪化が顕著となり、1981年から1990年まで会長職にあったロジャー・スミスの下、さまざまな取り組みが進められた。1984年にはトヨタ自動車との合弁会社『NUMMI』を設立し、QCに関するノウハウの吸収に努めたほか、アメリカ国内の工場のリストラ、労働条件の引き下げといった生産性を向上する取り組みにも着手した。日本車やドイツ車のコンセプトを模倣したサターンや高度にロボット化された工場の失敗などはあったものの、1990年代初頭には一定の成果を見せるようになった。また、1990年代を通じたアメリカの好景気は、フルサイズSUV・ピックアップトラックなどの需要を生み出し、アメリカ国内のシェア低下には歯止めが掛からなかったものの、高い利益率は好業績を維持することに貢献した。 1996年にGMは、デトロイトのウォーターフロントに建つ再開発ビルであるルネサンス・センターを買収し、従来の本社ビルであったキャデラック・プレイスから世界本社を移転した。
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