第二次世界大戦後:1940年代から1970年代まで
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マルセル・カルネの監督した『天井桟敷の人々』は第二次世界大戦下の戦時中に撮影され、1946年に公開された。この3時間に渡る映画は、当時フランスがナチの支配下にあったため、製作が非常に難航した。1828年のパリを舞台にしたこの作品は、1990年代、600名の映画批評家や映画製作者によって「これまでに作られた最も優れたフランス映画」に選ばれた。 また、1946年にはフランス政府がカンヌ国際映画祭を開催しはじめた。 個性的な監督として『ラルジャン』などのロベール・ブレッソンや『ぼくの伯父さんの休暇』などのジャック・タチがいる。また、ジョルジュ・フランジュやアレクサンドル・アストリュックも次世代の先駆者としての地位を占める。 1951年、アンドレ・バザンによって映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』が発行され、多くの若い批評家や愛好家たちグループらの議論の場となっていた。更に、批評の執筆者であった ジャック・リヴェット、エリック・ロメール、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロルなどは、映画の助監督の経験もないまま自分達で個人的に映画製作を始め話題になった。多くがシネマテーク・フランセーズで出会っていた。その動きは後にジャーナリズムによりヌーヴェル・ヴァーグと名付けられた。フランスのプロデューサーたちは、彼らの映画が制作費の安い割に話題になる事が気に入った。 当時の野心的な映画の潮流は大きく分けて、アラン・レネのような実験的映画作家出身の「左岸派」の作家と、雑誌『カイエ・デュ・シネマ』の若手批評家らの自主制作グループがあった。同じころ、映画業界から助監督出身の若手監督ロジェ・ヴァディム、ルイ・マルなどの商業映画のグループが斬新な感覚の作品で興行的に成功する。彼らはそれぞれ作風や立場も明らかに異なっていたが、ジャーナリズムは彼ら全てをひとまとめにし「ヌーヴェル・ヴァーグ」と呼んだ。 ヌーヴェル・ヴァーグの初期の作品としてジャン=ポール・ベルモンドとジーン・セバーグら主演のゴダールの『勝手にしやがれ』(1960)、トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959)、シャブロルの『いとこ同士』(1959)がある。彼らはアルフレッド・ヒッチコックやハワード・ホークスなどを「作家主義」の監督として信奉した。 1960年代の注目すべき作品にはジャック・ベッケルの『穴』(1960)、ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』(1960)、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞したアラン・レネの『去年マリエンバートで』(1961)、ジャック・ドゥミの『シェルブールの雨傘』(1963)、ロベール・アンリコの『冒険者たち』(1967)などがある。 若い映画作家の台頭は、フランスだけに留まる現象ではなかった。ほとんど同時期に世界中にその影響を波及させ、若い世代の映画作家たちの活動が各国で次々に起こった。結果、1960年代は世界的に映画の変革期となった。
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