第二次世界大戦後から現代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 17:33 UTC 版)
「スコピエ」の記事における「第二次世界大戦後から現代まで」の解説
スコピエは1944年9月13日にユーゴスラビアパルチザンの一軍隊であるマケドニア解放戦線と新たに同盟を組んだブルガリア人民軍により解放された。ブルガリアは1944年9月にソ連に無条件降伏して以降、枢軸国側から連合国側に変わり対ドイツ戦に加わっている。その後、直ぐにスコピエは新しく成立したユーゴスラビア社会主義連邦共和国内のマケドニア人民共和国の首都となった。 1991年までスコピエはマケドニア社会主義共和国の首都であった。都市は拡大し、1945年に15万の人口であったスコピエは1990年代前半には60万まで増えている。1960年代に入ると1962年のヴルダル川の洪水に続いて、1963年にはスコピエ地震の被害を受けている。マグニチュード6.1の地震によって1,000人以上が犠牲になり120,000人以上が家を失った。また、多くの文化的施設が深刻な被害を受けた。大規模な国際的支援によりスコピエの町は復旧が進んだが、多くの古い魅力的な新古典主義が失われている。新しい都市計画のマスタープランは当時、第一線で活躍していた日本人建築家で都市計画家の丹下健三によって作成された。地震で損傷を受けた旧スコピエ駅は今日でも犠牲者を偲ぶためにスコピエ博物館として残されている。スコピエ中心部の19世紀から18世紀に遡る新古典主義の国立劇場や多くの政府庁舎、スコピエ城塞(カレ城塞)なども激しい地震により破壊された。国際的な金融支援がスコピエに注がれたことは都市の再生に寄与し、その結果1960年代当時のブルータリズムの建築物が建ち並ぶ近代的な都市となり、中央郵便局や国立銀行はその中でも代表的な建物である。幸いにも地震からスタラ・チャルシヤの旧市街は生き残っている。スコピエの近代的な建築物群は復興の象徴であるが、その一方で都市に無機質さや不釣り合いな印象を与える場合もある。1991年にマケドニアがユーゴスラビアから独立するとマケドニア共和国の首都となり、現在ではスコピエの通りや建物、店舗では改装が進んでいる。2006年7月に新しい政府が選ばれると1963年に損傷を受けたスコピエ城塞や19世紀の旧国立劇場、旧国立銀行などの復元や保存の計画が立てられた。他には新しい博物館や公文書館、憲法裁判所、音楽劇場などの建設が計画されている。スコピエ2014プロジェクトによりピリッポス2世スタジアムの再整備が2015年に完了する予定で 、スコピエ空港の再整備と拡張も進められているが一方でこうした新たな開発に関しては財政的な面や景観などから批判もある。
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