第二次世界大戦後から東海道新幹線開業まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 05:11 UTC 版)
「米原駅」の記事における「第二次世界大戦後から東海道新幹線開業まで」の解説
第二次世界大戦後は朝鮮特需によって急激に貨物輸送量が増加し、輸送拠点としての米原駅は更に逼迫した状況に陥った。浜松 - 姫路で電化工事計画の下で米原で工区を分割されたため、米原で機関車の付け替えが行われることになり、電気機関区や機回線の新設が必要となった。同時に北陸本線の複線化工事も進められていたため、米原駅の抜本的な改良工事が必要となった。そこで1954年(昭和29年)2月1日から米原駅改良工事が着手。構内3ヶ所に分散していた仕訳線を神戸寄りに集約して1700両分の平面操車場を設置し、撤去した仕訳線跡地に電気機関区50両分を新設した。駅北側にあった扇形機関車庫は縮小された。旅客設備の改良も行われ、ホームや荷物跨線橋の新設や旅客跨線橋の延伸が行われている。施工費は約10億円で、当時としては珍しい大規模な機械化施工が行われた。昼夜を問わず工事が進められ、1955年(昭和30年)11月1日に竣工した。戦時中に二次世界大戦直後は全国で鉄道施設や車両が破壊された影響で、米原駅でも1950年(昭和25年)に発着する列車数は戦前の1931年(昭和6年)以前の水準に後退していた。ただし、優等列車は1950年(昭和25年)11月の段階で全て米原駅に停車していた。また、1947年(昭和22年)7月5日には米原発着の北陸本線急行列車が復活した。1950年(昭和25年)11月2日から北陸本線を経由する急行には「日本海」や「北陸」といった愛称が付けられた。 1955年(昭和30年)に東海道本線稲沢 - 米原間が直流電化される。1957年(昭和32年)の北陸本線田村 - 敦賀間の交流電化にあわせて田村 - 米原間が複線化され、配線の変更工事が行われた。東海道新幹線の計画線にあった客車操車場は電気機関区に隣接した場所に移設され、将来の電車化を想定して客車100両の容量で設置された。また、北陸本線複線化によって入換時に本線横断を伴うことを防ぐために貨車区も移動され、貨車操車場の位置に移設された。また、東海道本線の電車化の推進で、不要になった蒸気機関車関係の設備があった跡地に電車留置線が新設された。しかし、米原は東海道本線屈指の巨大な駅として構内配線が複雑化しており、作並や黒磯のように地上設備を設けた地上切替方式を採用することが困難であった。そのため、田村 - 米原は非電化のまま存置して蒸気機関車によって接続を行うこととした。1962年(昭和37年)に田村 - 坂田に交直セクションを設け、以南の米原まで直流電化されたが、当時は交直両用の電気機関車や電車が量産されておらず、牽引も蒸気機関車がディーゼル機関車に置き換えられた後の1983年(昭和58年)3月まで行われた。この時蒸気機関車E10、D50、D51、ディーゼル機関車DD50、DE10が牽引機関車として活躍していた。昭和30年代以降は高度経済成長を通じて東海道本線の電化と輸送力強化で優等列車が増発されたが、一部の特急が米原を通過し、また急行列車も米原の代わりに彦根に停車するようになる。1956年(昭和31年)11月から電車の運転が東京方・神戸方の両方向から延伸され、米原駅にも電車が発着するようになった。このことで米原を発車する列車の時刻が均等化し、急行列車も含め1時間に2本程度の列車が運行されるようになった。北陸本線は1961年(昭和36年)から特急列車の運転が開始された。
※この「第二次世界大戦後から東海道新幹線開業まで」の解説は、「米原駅」の解説の一部です。
「第二次世界大戦後から東海道新幹線開業まで」を含む「米原駅」の記事については、「米原駅」の概要を参照ください。
- 第二次世界大戦後から東海道新幹線開業までのページへのリンク