第二次世界大戦後から現代へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 14:19 UTC 版)
「プーラ (クロアチア)」の記事における「第二次世界大戦後から現代へ」の解説
1945年から数年間、プーラは国連管理下にあった。イストリアは占領地として分割統治されており、1947年9月15日に、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に属するクロアチア社会主義共和国に公式に統合された。 プーラがユーゴスラビアへ併合された際、人口の多数を占めていたのは90%以上いるイタリア人であった。しかし、1947年に和平条約が締結されると、1945年以後も残っていた人々もプーラを去っていった。1946年12月から1947年9月にかけ、イタリア系住民らの多数がプーラを後にした(イストリア脱出、en)。1947年から1953年の間、イタリアの文化的遺産(碑文、象徴など)はほぼ完全にプーラの記念物から取り除かれた。 1946年8月18日、プーラはヴェルガロラ爆発事件(en:Vergarolla explosion)の舞台となった。 1946年の調査では、プーラ郡には87,787人の人口があった(64%はイタリア人、32%はクロアチア人、771人のスロベニア人)。プーラのイタリア人は人口の90%近くを占めていた。1931年のプーラには41,439人の住民がいたが、1948年にはわずか19,595人しかいなかった。 直後に、イタリア語名のポーラから、市名は公式にクロアチア語のプーラに改名された。1992年のユーゴスラビア解体後、プーラは新たに独立したクロアチアの一部となった。
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