1号ドックの建設開始
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「横須賀海軍施設ドック」の記事における「1号ドックの建設開始」の解説
ヴェルニーがドックに使用する石材探しに奔走する直前の慶応3年(1867年)3月、第1号ドックが着工された。着工後の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、大政奉還が行われ、続いて慶応3年12月9日(1868年1月3日)に王政復古が宣言され、徳川幕府が終焉し、新政府が樹立されることになった。慶応4年閏4月1日(1868年5月22日)には新政府の東久世通禧、鍋島直大、寺島宗則らが横須賀製鉄所に来所し、横須賀製鉄所の接収を行った。接収後、横須賀製鉄所事業の重要性を認識していた新政府は、これまでと変わることなく事業を推進していくようヴェルニーに通告した。 1号ドックの設計はヴェルニーとヴェルニーのもと建築課長を務めていたL.F.フロランが行ったものと考えられている。1号ドックは当初全長約115メートルの計画であったが、工事途中に設計が変更され、約9メートル長い全長約124メートルとなった。工事監督は当初ツーロンの造船所で働いていたペリコが務めていたが、能力的に問題があったようでわずか2か月で同じくツーロンの造船所で働いていたデュモンと交代した。なお施工は幕府海軍御用達であった橋本長左衛門らが請け負った。 1号ドックの工事は、まずドック予定地前の海を締切堤で仕切ることから始められた。続いて締切堤の内部の海水を抜き、ドック本体の掘削が開始された。ドック本体の掘削に続いてドックに石を組む作業が行われた。先述のように真鶴から熱海付近から運ばれた安山岩質の新小松石が石材として使用された。石材の購入代金は当時の金額で18370両であった。一般的に船の修復用のドックは船の建設用ドックよりも底の部分が厚く造られる。これは既に完成された船の方が建造中の船よりも重いことによる。船の修復用ドックとして建設された第1号ドックも、そのあたりの事情が考慮されて造られたと考えられるが、現在に至るまで現役で使用され続けているために石組みの具体的な方法や厚さなどはこれまで確認されていない。また1号ドックの石積みについては、東京大学生産技術研究所の調査によれば、西洋式の直方体の石材を隙間無く組む方式と、日本式の「間知積み」と呼ばれる城の石垣を組む際に行われた方式の折衷であったと推察されている。なお、1号ドック建設中の1867年(慶応3年)11月に、建設現場からナウマンゾウの下顎部分の化石が発見されている。 1号ドックが完成し、使用され続けてすでに百数十年が経過しているが、一部に風化、磨耗が認められるものの、ドックを形成している石材は全体として健全な状態が保たれており、ヴェルニーが選び抜いた石材の耐久性、耐水性の高さは明らかである。2013年に行われた1号ドックの石材の侵食状況についての調査によれば、最も侵食が進んだ石材でも侵食の深さは約10センチメートルであり、石材全体から見て約四分の一の深さであることが明らかとなった。この程度の侵食ではドックの強度的に大きな問題が発生するとは考えられない。 1号ドックで使用したセメントの購入代金は石材の約3倍の56000両に達しており、ドック本体建設総費用の約45パーセントにも及んだ、これは当時日本で生産が不可能であった、水中でも固まる性質があるポルトランドセメントを全量輸入したためと考えられる。またポルトランドセメント以外にも消石灰および火山灰からなるセメントも併用したとの説もある。セメントは掘削したドック断面に石組みを構築する際、裏込めとされた。つまりセメントは現在の基礎コンクリートないし捨てコンクリートと同様の役割と、掘削されたドックの壁面と石組みとの充填剤の役割を果たしていると考えられる。 ドック本体の石組みが完成するとドックの入り口部分の建設が行われた。そこまで工事が進んだ後に締切堤の撤去がなされる。締切堤の撤去後、船舶がドックに出入する際に支障とならぬよう、締切堤があった部分を中心としたドック入り口付近の海底を浚渫した。浚渫終了後、ドック入り口を閉じる扉船がドック入り口に設置され、完成となった。なお扉船の購入費用は29568両に及び、他の工事費用と比較するとかなりの高額であったことがわかる。 1号ドックは明治4年(1871年)1月、完成した。明治4年2月8日(1871年3月27日)には有栖川宮熾仁親王、伊達宗城らが出席して1号ドックの開業式が行われた。1号ドックの特徴としてはドックの底面が水平となっている点が挙げられる。一般的にドライドックは排水を効率的に行うために、ドックの奥から入り口に向かってゆるやかな坂をなすように建造される。1号ドックの底面が水平に施工された理由は、ドック底面を均一な勾配で傾斜をつけることが技術的に困難であったからと考えられる。しかしやはりドック底が水平であると作業上都合が悪かったようで、1号ドックに続いて建造された3号ドックの底面は勾配がつけられた。また現在のドックと比較してもうひとつ大きな差は、ドックの壁面が階段状をしている点が挙げられる。これはフランスの技術指導のもと建設された1号ドックは、フランスが好んで建設していたドックの壁面が階段状をしたタイプになったものと考えられる。階段式のドライドックは船底が平らでない船舶のドック入りに便利であり、そのような船舶はドック入り後、排水時に船体を両側から支持棒で固定する必要があり、支持棒の設置のためにドックの壁面が階段状に施工される必要があったためである。また施工上も階段式の方が容易であった。 1号ドック建設場所は地盤が良く湧水も少量であったと考えられ、土留めや止水壁を用いることなく工事が可能であったと考えられるが、例えば海を締切堤で仕切るような大規模な海上での工事は、これまで日本では行われた経験がないもので、やはり工事は困難であったと考えられる。またこのような大きな近代的な海洋土木工事を、幕末から明治初年という時期に初めて取り組むこと自体、工事を進めていく組織作りと運営、材料の輸送と搬入などにも大きな困難が伴ったと考えられる。1号ドックは完成後百数十年余り、これまで改修と補修は行われているものの、今なお現役で使用され続けている。これは財政が破綻状態であった幕末期にあえて建設が開始されたことを始め、数多くの大きな困難の中で建設された1号ドックであるが、ヴェルニーの選定した建設場所や石材の優秀さ、そして施工の確かさ、技術力の高さを示している。 なお、1号ドックの排水ポンプは2号ドックと兼用であり、ドックの石積み護岸の一部は補修等は行われているが、ドック建設当初の幕末から明治初年のものが残っている。
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