辞世
辞世の句
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 09:03 UTC 版)
「奉献 議論より実を行へ、なまけ武士、 国の大事を余所に見る馬鹿、皇国草莽臣 南八郎」 (南八郎は河上弥市の別名) 高杉は、吉村寅太郎と河上の死を知り、「私の知り合いは世に数多くいるが、私の心を知るものは吉村虎太郎と河上弥市のみだ」と悼んだという。 「予、知己天下に多し、而して能く我心を知る者は、土州の吉村寅太郎、我藩の河上弥市也、弥市節に但馬に死し、寅太郎節に大和に死す。二士之名頗る近時に冠たり、而して寅太郎は張巡に類し、弥市は霽雲 に類す。然して、二士之節義は固より巡雲の及ぶ所に非ざる也。」 (東行遺稿。東行とは高杉のこと)
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辞世の句
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 09:10 UTC 版)
よしや身は 越路の雪に うづむとも とくる清水に 名をや流さむ 「たとひ身は 越路の雪に 埋むとも 清き流れに 名をや流さん」とする文献もある。
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辞世の句
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 14:28 UTC 版)
辞世の句「地獄には よき我が主(若衆)の あるやとて 今日おもひたつ 旅衣かな」から、主君の政元と男色関係にあったといわれる。この歌は掛詞となっており、「我が主」と詠むと地獄にいる良い主のもとに決然と旅立つ歌となるが、「若衆」と詠むと地獄にも良い若衆がおりお前にとっても居心地がよいぞ、と政元を地獄へと誘う不吉な歌となる。実際、元一は家臣に辞世を伝えさせる際、「若衆と聞こえるよう発音しろ」と指示したという。
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辞世の句
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 05:21 UTC 版)
義輝の辞世は以下の句が伝えられている。 「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」
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辞世の句
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 23:59 UTC 版)
「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」自分の人生と日本や満州国の運命を重ねて詠んだ川柳と思われる。
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辞世の句
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 14:22 UTC 版)
『太平記』流布本巻26「正行吉野へ参る事」では、四條畷の戦いに赴く直前、辞世の句(後述)を吉野の如意輪寺の門扉に矢じりで彫ったと描写される。決戦を前に正行は弟・正時や和田賢秀ら一族を率いて吉野行宮に参内、後村上天皇より「朕汝を以て股肱とす。慎んで命を全うすべし」という言葉を受けた。しかし次の戦で討ち死にする覚悟は強く、参内後に後醍醐天皇の御廟に参り、その時決死の覚悟の一族・郎党143名の名前を如意輪堂の壁板を過去帳に見立てその名を記してその奥に辞世を書き付け自らの遺髪を奉納したという。 返らじと かねて思へば あづさ弓 なき数にいる 名をぞとゞむる しかし、生駒孝臣らは、歴史上の正行が討死を前提として四條畷の戦いに臨んでいたとは到底考えにくいと指摘している(→玉砕戦か否か)。 なお、簗瀬一雄の『説話文学研究』所収「梓弓の歌の伝承」や池見澄隆の『中世の精神世界〔死と救済〕』所収「『梓弓』説話の形成―仏教とシャーマニズム」等によれば、類歌が『保元物語』中「為義降参の事」・『延慶本平家物語』巻4「宇佐神官ガ娘後鳥羽殿へ被召事」その他にある。
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辞世の句
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 07:33 UTC 版)
かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風(風など吹かなくても、花の一生には限りがあるので、いつかは散ってしまうのです。それを春の山風は何故こんなに短気に花を散らしてしまうのですか) この歌は自己の早世を嘆たものである。 祇園南海、幸田露伴の著作にこの句の評釈がある。また、山田風太郎は『人間臨終図巻』の中で、「この句は戦国武将の絶唱としては白眉である」と評している。
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辞世の句
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 02:14 UTC 版)
ウィキクォートに大石良雄に関する引用句集があります。 大石良雄の辞世の句一般には1または2として知られるが一部文献には3とされる。 あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし あら楽や 思ひははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし - 『介石記』、『江赤見聞記』、『義人遺草』 極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人 しかしながら1および2は浅野長矩の墓に対してのもので、実際には次が大石辞世の句として現存する。 武士の 矢並つくろふ 小手のうへに あられたはしる 那須のしの原 これは大石が辞世を書いたものを堀内伝右衛門が預かり、大石自身の手になる現物が今に残っている。石川九楊は大石の筆跡を「ふ」や「る」の止めが高く位置して、「当時の武家の基本書法である御家流を踏まえている」との印象を語っている。
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辞世の句
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/10 08:18 UTC 版)
登は、明治20年(1887年)1月1日に以下のような辞世の句を残した。 たかくとも 五十(いそ)の峠をやすやすと 越ゆれば御代の 春ぞのどけき
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辞世の句
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 01:57 UTC 版)
四方山の 花咲き乱る 時なれば 萩も咲くさく 武蔵野までも この句は、長州藩(萩)を支持し、武蔵国出身の近藤・土方らを批判した句と言われている。田中の辞世之句は他にも数点、残っていることが確認されている。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
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辞世の句
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 22:41 UTC 版)
原水爆の犠牲者は、わたしを最後にしてほしい。 — 久保山 愛吉、
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辞世の句
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/26 10:12 UTC 版)
優しく洒脱な性格は、死後、彼の妻によって発見された辞世(「早生まれ 早寝早起き 早がてん 浄土へまいるも ちょっと早めに。合掌。」)にも現れている。
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