辞めたくなったら…
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:04 UTC 版)
1946年(昭和21年)4月10日、戦後初の総選挙が行われた結果、幣原内閣を支持する旧大日本政治会系の日本進歩党は善戦したものの伸び悩み、旧同交会系の日本自由党が比較第一党となった。内閣は総辞職することになり、幣原は4月30日に参内して自由党総裁の鳩山一郎を後継首班に奏請、鳩山はただちに組閣体制に入った。ところが5月4日になって突然、GHQから政府に鳩山の公職追放指令が送付されると、状況は一変した。 自由党は急遽後継の総裁選びに入ったが、候補に登ったのは元政友会の重鎮で鳩山と親しかった古島一雄と、駐米大使や駐英大使を歴任して当時は宮内大臣として宮中にあった松平恒雄だった。しかし鳩山が古島のもとを訪ねると、古島は高齢を理由ににべもなく要請を拒絶した。そこで鳩山は、松平と親しかった外務大臣の吉田に松平説得を依頼した。吉田は半年前にも幣原に総理を引き受けるよう説得に赴いており、また1936年(昭和11年)にも広田弘毅の説得を行っている。外務省OBの説得なら吉田に任せればいいというのは自然の成り行きだった。果たして吉田が松平に会うと松平は色気を示したが、数日後その松平と直接会った鳩山は、その足で吉田を外相公邸に訪ね、「あの殿様じゃ党内が収まらない、君にやってもらいたい」と持ちかけてきた。これには吉田も仰天して「俺につとまるわけがないし、もっと反対が出るだろう」と相手にしなかった。 ところが元政友会幹事長の松野鶴平が、この日の夜から毎晩のように吉田のもとに押しかけて後継総裁を受けるよう口説き、ついにはその気にさせた。松野はその手練手管から「松のズル平」とあだ名されていた。松野の行動は鳩山の関知するところではなく、そのことを知った鳩山は「松野君は外相公邸の塀を乗り越えてまで吉田君に会いにいくそうじゃないか」と不快を隠さなかった。そもそも鳩山と吉田は友人だったが、この頃から2人の関係は次第にぎくしゃくし始めることになる。 蓋を開けてみると、吉田は松平に引けを取らないほどの殿様ぶりで、総裁を引き受けてもいいが、 金作りは一切やらない 閣僚の選考に一切の口出しは無用 辞めたくなったらいつでも辞める という勝手な3条件を提示して鳩山を憤慨させた。しかし総選挙からすでに1か月以上が経っており、この期に及んでまだ党内でゴタゴタしていたらGHQがどう動くかわからなかった。吉田は三条件を書にしたためて鳩山に手渡すと、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と言って総裁就任を受諾した。 5月16日、幣原の奏請を受けて吉田は宮中に参内、天皇から組閣の大命を拝した。吉田は「公約」どおり自由党の幹部には何の連絡もせずに組閣本部を立ち上げ、党には一切相談することなくほぼ独力で閣僚を選考した。自由党総務会で吉田の独走に対する怒号が飛び交うのをよそに、22日に再度参内して閣僚名簿を奉呈、ここに第1次吉田内閣が発足した。
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