師・大山倍達との確執についてとは? わかりやすく解説

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師・大山倍達との確執について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 09:46 UTC 版)

芦原英幸」の記事における「師・大山倍達との確執について」の解説

1970年代週刊少年マガジン連載され人気博した大山倍達半生極真会館発展描いた劇画空手バカ一代』(原作梶原一騎)の後半部作画影丸譲也)では、準主役級扱い頻繁に劇中に登場していた。創作で『ケンカ十段』の異名エピソード実話風に描かれ連載中主人公大山匹敵する人気誇っていた。 その結果愛媛県芦原の下には県内外から入門希望者が殺到し芦原道場松山駅前新道場を構えるまでに成長したが、大山自分主役であるはずの「空手バカ一代劇中弟子活躍し人気得ていることを快く思わず、梶原苦言呈し芦原との間にも軋轢生まれた支部長会議の席では、芦原大山発言無視して一触即発状況になり、真樹日佐夫梶原実弟)が慌ててなだめるという緊迫した場面もあったという。真樹著書大山倍達との日々~さらば極真カラテ!」でも、それ以前から支部長会議芦原大山再三異議を唱える合同稽古でも芦原大山指示慇懃無礼な態度拒否するなどの行為両者の間に確執があった事を述べている。 極真会館永久除名となった理由について、大山自著『わが空手 求道日』で、支部本部申告する道場生の数を芦原側が少なく申告し自分達の支部バランスを取るために他の支部長も本部に報告する道場生の数を調整する持ちかけた等の行為があったとしている。同書では芦原の名は出さず匿名にしていたが、後年高木薫発表した『わが師 大山倍達1200万人への道』では、件の匿名支部長芦原であったとしている。芦原側の言い分としては、『空手バカ一代人気影響され入門してきた生徒達はすぐに辞めていくため初めからカウントせず、そのために本部申告しなかったのだという。 また、近年になって芦原の元門下生インターネット上アップしたいくつかの資料から、実際除名以前から芦原道場本部半ば無視したような独自の経営徐々に移行しており、「極真会館芦原道場」と並行して芦原会館」の名称も既に使われていた事が明らかになっている。 また、小島一志著「芦原英幸正伝」では、1980年3月支部長会議芦原対す永久除名処分通告され、これに激昂し芦原列席していた支部長達や大山対し常識ではあり得ない罵詈雑言浴びせて威嚇し大山含めた全員震え上がらせ、相談役柳川次郎に嗜められて会場を後にしたという表現為されている。なお、同書では極真会館門下生佐藤俊和が件の支部長会議芦原剣幕大山が、佐藤見たとがないほど怯えていたとの証言記述があるが、『最後直弟子が語る 芦原英幸との八年間 (原田 寛 著)』では、佐藤著者に、自分支部長ではないので当の支部長会議出席していない、取材受けていないと憤慨し否定している(同書249ページ)。芦原本人は、自著空手燃え空手生きる』等にて、そのようなけんか腰態度はしておらず、同支部長会議の席で極真会館退会意向示し、「すぐに辞めるのは(真に)迷惑がかかるからあと一年辞めさせてほしい」と申し出て松山帰ったところ、半年後に極真会館側が一方的に全国紙使って芦原英幸永久除名」を発表した、と記している。 芦原英幸著「芦原英幸 いのちの言葉」より 「 ブーム極真空手踏み台にして、自分自身売り出そうという者たちにとって、私は目障りな存在だったんだな。少しずつではあるが、会館本部と私の距離が、地理的な距離以上に遠ざけられしたんだよ。それでね、昭和五十三年原文ママ三月東京開かれた支部長会議出席した際、「ここは、もう自分がいてもいなくても同じだ」 と、その場空気にそう感じた会議中、頭の中をいろいろなことが巡ってね。組織に迷惑をかけないためには、どうするのがいちばんいいのか、あれこれ考えてたんだけど、ふっと私一人きれいな形で辞めばいいんだ、と思ってね。四国細々とでいい、自分自身考えている空手追求して一人でもいいから信頼してついてきてくれる若者にそれを伝えていこう、と肚を決めた会議の中で、 「あと一年辞めさせていただきます」 と、そう言い残して四国帰ったんだ。それから半年後の九月に、一通の手紙が組織から届いたんだ。 「芦原英幸永久除名処分とする」 という通達だったんだよ。きれいな形で辞めたかったんだけど、そうはいかないまでに組織大きくなってたんだ。それから一週間後に全国紙含んだ新聞にね、私を永久除名処分にするという極真会館からの広告掲載されてね。まあ、イメージからすれば、私がいかにも悪いことをやって除名になったような広告ではあったな。でもね、その広告を見るとね、大山館長の「師を乗り越えて雄飛せよ」という最後教えのように思えてね。大山道場入門したのが、昭和三十六年九月で、二度とその門をくぐれなくなったのが、昭和五十五年の、これも九月だった。 (8485ページ) 」 また、同書では前述松山での新道場を建てた際にも(真)総本部から、「立派すぎる」「それ程規模道場建てるカネがあるならもっと本部送れ」とのクレームが来た事を語っている。 極真会館退会した直後、ある後援者に「これで大山とは師でも弟子でもなくなったな」と言われた際に「私の師匠は今も昔も大山倍達です」と静かに返したという逸話が、芦原逝去伝える『ゴング格闘技』に掲載された。

※この「師・大山倍達との確執について」の解説は、「芦原英幸」の解説の一部です。
「師・大山倍達との確執について」を含む「芦原英幸」の記事については、「芦原英幸」の概要を参照ください。

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