師・川田晴久との出会いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 師・川田晴久との出会いの意味・解説 

師・川田晴久との出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:41 UTC 版)

美空ひばり」の記事における「師・川田晴久との出会い」の解説

1948年2月神戸松竹劇場への出演に際して神戸での興行影響力持っていた暴力団三代目山口組組長田岡一雄挨拶出向き気に入られた。同年5月、まだ無名存在であった11歳少女・ひばりの才能見込んだ当時人気絶頂ボードビリアン川田義雄(のちの川田晴久)に横浜国際劇場公演抜擢された。川田はひばりをそばに置いてかわいがりまた、ひばりも川田を「アニキ」と呼びよく懐いていた。ひばりは川田大きな影響受けており、節回し川田節から学んでいる。専門家による声紋鑑定でも二人節回し歌い方が一致する結果出ている。ひばりは「師匠といえるのは父親川田先生だけ」と後に語っている。 川田一座では当時スター歌手笠置シヅ子物真似(歌真似)が非常にうまく“ベビー笠置と言われ拍手浴びる。純粋に「かわいい」と見る層がいた一方、「子供大人恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層も存在した詩人作詞家サトウハチロー当時のひばりに対し近頃大人真似をするゲテモノ少女歌手いるようだ」と、批判的な論調記事書いている。 前年10月喜劇役者伴淳三郎劇団新風ショウ参加し同一座が舞台興行行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた岡田恵吉に母親芸名をつけてくれるように頼み美空ひばり命名してもらう。横浜国際劇場支配人だった福島通人がその才能認めマネージャーとなって舞台仕事取り次々と“ひばり映画”を企画することに成功した。 なお、「美空ひばり」の命名者時期については上記以外も諸説あるが、神奈川新聞掲載され横浜国際劇場公演広告1948年3月8日掲載ぶんに「美空ヒバリ」、同じく1948年6月1日掲載ぶんに「美空ひばり」の記載残っているため、遅くとも1948年3月以前であろう推測される

※この「師・川田晴久との出会い」の解説は、「美空ひばり」の解説の一部です。
「師・川田晴久との出会い」を含む「美空ひばり」の記事については、「美空ひばり」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「師・川田晴久との出会い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「師・川田晴久との出会い」の関連用語

師・川田晴久との出会いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



師・川田晴久との出会いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの美空ひばり (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS