黒さの表現および差別への成り立ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 17:20 UTC 版)
「ブラックフェイス」の記事における「黒さの表現および差別への成り立ち」の解説
ブラックフェイスの起源ははっきりしていない。文化コメンテイターのジョン・ストラスボウは遅くとも西アフリカ人がポルトガルに連れていかれた1441年頃から伝統的に「白人の観客の楽しみおよび啓蒙のため黒さを表現していた」と語った。白人たちはエリザベス朝やジャコビアン時代のイギリス・ルネサンス演劇で『オセロ』(1604年)などで黒人登場人物を演じていた。しかし『オセロ』などこの時代の演劇では黒人の音楽や行動などの模倣や誇張はなかったとされる。1769年5月29日、ニューヨークのジョン・ストリート劇場で、アメリカン・カンパニーでブラックフェイスの白人俳優として有名であったルイス・ハラム・ジュニアがイギリスのオペラ『The Padlock』の酔っ払いの黒人マンゴー役を演じてブラックフェイスの原型となった。この演技は好評で、他の役者たちもこのスタイルを取り入れるようになった。遅くとも1810年代にはアメリカでブラックフェイス道化師が人気となった。1822年から1823年、イギリス人俳優チャールズ・マシュウズは全米ツアー公演を行ない、次の公演『A Trip to America』に黒人キャラクターを加え、奴隷の歌『Possum up a Gum Tree』を歌った。1823年、エドウィン・フォレストはプランテーションの黒人を演じ、1828年にはジョージ・ワシントン・ディクソンがブラックフェイスでのキャリアを確立していた。しかし1828年、他の白人コメディ俳優トーマス・D・ライスがブラックフェイスで『Jump Jim Crow』を踊りながら歌い人気が爆発し、1832年までにスターダムにのし上がった。 ライスは「ダディ・ジム・クロウ」という芸名で全米をツアー公演した。レコンストラクション後、人種差別の撤廃を示す「ジム・クロウ法」に名付けられた。 1830年代から1840年代初頭、ブラックフェイスはスケッチ・コメディーとコミックソング、そして激しいダンスをミックスして演じていた。当初ライスとその同僚たちは安劇場でのみ演じていたが、ブラックフェイスの人気が上がると上流階級が出入りするような劇場での出演が増えていった。ブラックフェイスのキャラクターのステレオタイプは、おどけていて、怠け者で、迷信深く、臆病で、好色であり、泥棒で、病的に嘘つきで、英語が下手である。初期のブラックフェイスのミンストレルは全て男性だったため、異性装で黒人女性を演じてグロテスクに男らしく魅力がなく、典型的南部のマミー(黒人の肝っ玉母さん)タイプか、性的にとても挑発的な演技を していた。1830年代のアメリカの舞台でブラックフェイスの人気が上がり、賢いヤンキーと伝説的開拓者のステレオタイプがコミカルに演じられた。19世紀後期から20世紀初頭、アメリカとイギリスの舞台は繁盛し続け、強欲なユダヤ人、酔っ払いで喧嘩早いおべっか使いのアイルランド人;、油まみれのイタリア人、面白みのないドイツ人、騙されやすい田舎者など主に民族的ステレオタイプがコミカルに演じられていた。 1830年代および1840年代初頭、ブラックフェイスの俳優たちはソロ、デュオ、時々トリオで演じていた。のちにブラックフェイス・ミンストレルとして性格付けられる巡業公演はミンストレル・ショーとしてのみ演じられた。1843年、ニューヨークでダン・エメットおよびヴァージニア・ミンストレルズは斬新さや上流のステータスを排除し、本格的なブラックフェイス演劇を上演した。同時期、ニューヨーク州バッファローでE・P・クリスティが行なった公演の方が早いとする説もある。エメットらは半円形のオーケストラ・ピットに演奏家たちを座らせ、ダンバリン奏者を片側に、ボーンズ奏者を逆側に配置し、前座として演じていたがすぐに3幕ものの1幕目となった。1852年までにブラックフェイスのスケッチ・コメディは1幕ものの笑劇に拡大し、たまに3幕もののトリとなる3幕目に登場した。 この頃、アメリカ合衆国北部の作曲家スティーブン・フォスターはブラックフェイスのミンストレル・ショーで活躍した。歌詞は方言で書かれ、現在のスタンダードと なっているポリティカル・コレクトネスから大幅に外れていたが、彼の後期の曲は嘲笑や露骨で差別的なカリカチュアはなくなり他のジャンルの曲の手本となった。フォスターの曲は奴隷や南部をテーマにすることが多く、その甘いセンチメンタルな曲調は現代人の心にも響かせる.。 白人によるミンストレル・ショーは白人役者が黒人になりすますことを特徴としており、ブラックミュージックを演奏し黒人英語の真似で話した。1890年代までミンストレル・ショーはアメリカのショー・ビジネスの主流であり、イギリスやヨーロッパの他の地域でも大人気であった。ミンストレル・ショーの勢いが下降すると、ブラックフェイスは原点回帰しヴォードヴィルの一部となっていった。遅くとも1930年代には映画に登場するようになり、1950年代にはラジオ番組『Amos 'n' Andy』に登場して「耳のブラックフェイス」と呼ばれるようになった。また遅くとも1950年代にはアマチュアのブラックフェイス・ミンストレル・ショーの人気が続いていた。1950年代、イギリスにおいて人気だったブラックフェイスはカンブリア出身のリカルド・ウォーリーで猿のビルボを連れてイングランド北部を巡業していた。 その結果、黒人に対する偏見を作り上げるのに重要な役割となった。社会派コメンテイターの中にはブラックフェイスは白人の未知の恐れの捌け口、人種や支配についての感情や恐れを表現する方法となったという意見もある。『Love and Theft: Blackface Minstrelsy and the American Working Class』の中でエリック・ロットは「黒い仮面は侮辱や脅迫そして人間に対する恐れを表現できる。それと同時にそれらをコントロールすることもできる」と記した。 しかし少なくとも最初はブラックフェイスは社会的に封じ込められていた反対勢力の声を届けることができた。早くも1832年には、黒塗りのトーマス・D・ライスが「白人紳士たちよ、私の道に踏み込むな。もし私を侮辱するならやっつける」と歌っていた。またライスはウィリアム・シェイクスピアのパロディで「私は黒人だが、白人は兄弟と呼ぶ」と歌い、下層白人と下層黒人の観客が同等とみなされる機会でもあった。
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