雨情の晩年
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野口雨情は「シャボン玉」や「七つの子」などの童謡を作詞し、北原白秋・西條八十らと並び、童謡の三大作詞者に数えられた人物である。雨情は1940年(昭和15年)頃から体調を崩し気味であったが、東京・吉祥寺に家を構え、詩作・講演・旅行と忙しい毎日を送っていた。(吉祥寺の家は書斎部分のみ「童心居」として、井の頭自然文化園に移築されている。)1943年(昭和18年)2月に著書『朝おき雀』を公刊した後、脳軟化症(脳出血)を患った。それでも山陰や四国へ最後の旅に出かけたが、やはり体調は思わしくなく、空襲も激しくなってきたことから、1944年(昭和19年)1月に、雨情の妻・つるの父の紹介で、吉祥寺の家を譲り、河内郡姿川村大字鶴田1744番地へ引越した。雨情一家は東京から東武宇都宮線に乗って東武宇都宮駅に降り立ち、そこから夜道を人力車に揺られて羽黒山麓の家に到着した。 鶴田への移住目的は疎開と療養であり、詩作はほとんど行わなかった。移住したばかりの頃は、つると2人で果樹栽培や養鶏にいそしみ、畑でラッキョウを育てることもあった。しかしその後病状は悪化し、やっと歩けるというほど体が衰え、縁側でひなたぼっこをしながら物思いにふけることが多くなった。物思い中は、つるから「何を思っているんですか」と尋ねられても「ちょっと考えているだけだ」と答えるのみで、多くを語らなかった。一方、来客があると快く受け入れ、客人の求めに応じて色紙や短冊を書いて渡した。鶴田時代に作ったことが確認されている作品に次の2点がある。 「 夜明け頃やら羽黒山あたり 朝の朝日がほのぼのと 」 「 国のほまれか靖国の 神とまつらる益荒夫は 」 後者の詩は、雨情の近所の主人が中国へ戦争に行き、病死したと聞いて書いたもので、つるに託してその家に届けたものである。ほかにも雨情の短冊を所有する鶴田の住民はいるものの、それらは鶴田に来る前に書かれたことが判明している。 雨情と面会した経験のある鶴田の住民は少なく、1971年(昭和46年)にはただ1人になっていた。その1人である男性は、同年に上野百貨店で開かれた雨情の遺作展のパンフレットに雨情との対面の経過を寄稿した。この寄稿文によると、男性は1944年(昭和19年)12月の中旬に戦地から帰還し、挨拶回りのために雨情宅を訪問し、縁側でひなたぼっこをする和服姿の雨情に会った。男性が留守中の礼を言うと雨情は何か答えようとしたが、中風のため言葉にならず、台所から出てきたつるが代わりに応じた。男性が雨情と会ったのはその1回限りで、わずか数分の間であった。 年が明けて1945年(昭和20年)1月27日、家族に看取られながら雨情は62年の生涯を閉じた。当時の鶴田では、隣組の中で死者があると、組長が組員を集めて葬儀の段取りを決める風習があったため、組長自身が葬儀委員長を務め、組員が準備に当たった。戦争末期の物資不足で組員は葬具をそろえるのに苦心し、また土葬が主流であった当時の鶴田では初めての火葬だったこともあり、多くの混乱があった。結局、棺の蓋を留める釘が入手できず、やむなく縄で縛って蓋をした。その上に紋付羽織をかけ、塩釜稲荷神社の宮司によって神葬祭として葬儀が行われた。火葬場までは、若手の組員がパンクしそうな自転車の荷台につるを乗せて移動し、棺は荷車で運ばれた。出棺時は興禅寺の住職で、歌人でもあった石川暮人が国民服に巻きゲートルという姿で読経した。著名人の葬儀としては淋しいものであったが、当時としては普通の葬儀であり、戦後復興が進むにつれ、「今ごろまで生きていれば、雨情さんの葬式は盛大にできたのに」と隣組の人々は語った。
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