雨情の死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 05:34 UTC 版)
雨情の死後、ノートの隅に次の詩が残されていることが分かり、遺作であることが判明した。この詩は、死期を悟った雨情が宿世来世(しゅくせらいせ)に思いを巡らして作ったものと解釈できる。なお、下から3行目の「宿世来世を 教えておくれ」は詩の調子を整えるためにつるが補足したもので、未完のままこの世を去ったことを窺わせる。 「 空の真上の お天道さまよ 宿世来世を 教えておくれ明日といふ日が ないじゃない 今日は現世で 昨日は宿世空の真上の お天道さまよ 明日は来世か お天道さまよ宿世来世を 教えておくれ 遠い未来は語るな言ふな明日といふ日を わしゃ知らぬ 」 雨情亡き後、つるは、近所の人に教わりながら農業に従事し、単身子育てをした。子供たちは進学を機に鶴田を離れ、最後まで残っていたつるも1955年(昭和30年)秋に、疎開前に暮らした武蔵野市へ戻った。鶴田での生活は苦しかったが、社会が安定してくると雨情の童謡が盛んに歌われ、一家は著作権収入を受け取ることができるようになった。なお雨情の遺骨は1945年(昭和20年)3月に生誕地の茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)に分骨された後、1966年(昭和41年)に東京・小平霊園に埋葬された。1980年(昭和55年)2月2日につるが亡くなると、雨情と同じ小平霊園に埋葬され、同じ墓に眠っている。 鶴田を含む宇都宮市明保(めいほ)地区では、老人クラブに「雨情寿会」と名付け、その会誌を「あの町この町」とし、会合の際に「あの町この町」を合唱する。ほかにも子供会が「雨情子ども会」、婦人会が「雨情女性クラブ」、ボランティア団体が「雨情ボランティアクラブ」を名乗り、付近の橋梁に雨情陸橋・雨情橋と命名するなど、今日でも雨情に親しんでいる。またまちづくりのよりどころとして雨情を取り上げ、命日の1月27日を「雨情の日」と制定している。更には、周辺地域に住居表示を導入する際は、「雨情○丁目」にしてほしいという要望がある。
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