開発課程と完成、生産の頓挫
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「フォルクスワーゲン・タイプ1」の記事における「開発課程と完成、生産の頓挫」の解説
しかしフォルクスワーゲンの開発は難航した。計画からは大幅に遅れが生じ、ポルシェの責任を問う声も上がったが、ヒトラーの庇護で開発は続行された。 契約を結んでから1年後の1935年にようやくプロトタイプ2台(V1、V2)の製作が完了、翌1936年に3台(V3シリーズ)が完成。1937年には計30台のプロトタイプ(W30シリーズ)がダイムラー・ベンツで製作された。ナチス親衛隊(SS)隊員から運転免許保有者たちが選抜され、彼らによって過酷なテストドライブを受けることで、プロトタイプの弱点が洗い出され、強化された。 また生産工場の建設計画についても多くがポルシェに委ねられたことから、開発期間にポルシェは2度に渡ってアメリカ合衆国を訪れ、大衆車の廉価な大量生産のノウハウを得るためにフォード・モーターなど大手自動車メーカー各社の工場を、現場の生産体制に至るまで詳細に視察した。 この際、ポルシェは自動車量産の始祖とも言えるヘンリー・フォードとも直に会談している。ヘンリー・フォード個人は熱烈な反ユダヤ主義者であり、彼が1920年代に著述した反ユダヤ宣伝の著作はヒトラーにも影響を与えたほどであった。そしてフォード自身、第二次世界大戦開戦以前にはヒトラーのドイツでのユダヤ人弾圧活動に強いシンパシーを抱いていた。従ってヒトラーによって派遣されたポルシェにも協力的であり、また(自社傘下のドイツ・フォードと競合する可能性をはらむにも関わらず)ドイツでの大衆自動車量産の企画には大いに理解を示した。しかしポルシェの示したフォルクスワーゲンの尖鋭的な設計コンセプトについては、持ち前の保守性から評価しなかったという。1908年にT型フォードを開発してからのヘンリー・フォードは、量産V型8気筒エンジンの開発(1932年発表)以外では徹底して保守的な設計に偏重した。その結果、フォード車の設計は少なくとも1948年までアメリカの大手自動車メーカーの中では最も旧弊なままであった。 翌年1938年にはプロトタイプV303のセダンとサンルーフとカブリオレが完成し、後年までよく知られるフォルクスワーゲンのスタイルが決定した。 同年5月にはブラウンシュヴァイク付近で製造工場の定礎が行われ、その会場でヒトラー立ち会いの下、ポルシェによってプロトタイプV303が披露された。上機嫌で賞賛と国民車普及の演説を打ったヒトラーは、その場で生産型の車名を『KdF-Wagen(歓喜力行団の車)』と命名した。工場周囲にできる計画都市もKdFシュタット(「歓喜力行団の車市」、Stadt des KdF-Wagens、KdF-Stadt、現在のヴォルフスブルク)と名付けられた。 その約2ヶ月後、プロトタイプVW38が完成し、翌1939年までにおよそ35台が製作された。それまでのボディ製作はハンドビルドであったが、同年夏頃からは、実際のプレス金型によるボディパネルを使用した最終プロトタイプVW39がおよそ14台製作された。 こうしてKdFの大量生産準備が進められることになった。KdFの販売にあたっては、国民はクーポン券による積み立てでKdF購入費用を貯蓄し、満額に達した者に車を引き渡すという計画が立てられた。 しかし、ヒトラー自身が1939年に第二次世界大戦を勃発させてしまったため、量産直前まで到達した国民車構想はストップした。KdFクーポンは販売促進のため、政府主導によって企業現場などで強制割当も図られたが、戦争とナチス政権崩壊のためクーポンは無価値な紙くずとなり、戦後、クーポン購入者たちの一部がフォルクスワーゲン相手に訴訟を起こす事態に陥っている。この訴訟は1960年代初頭まで長引いたが、最終的には原告に対し大幅割引価格でタイプ1を販売することで和解が図られた。 戦時体制下、KdF-Wagen製造工場は軍用仕様のキューベルワーゲンやシュビムワーゲンを主に生産するようになった。若干数の KdF-Wagenも軍用車両として用いられた。この工場では戦争捕虜や収容所収容者が過酷な労働に従事させられた。戦後のフォルクスワーゲンにこの戦時中の強制労働の直接責任があるわけではないが、同社は歴史担当部門を設け1998年から各種の戦争補償プログラムを行なっている。
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