過去の電車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:35 UTC 版)
ET・EB・ES165形 1927年の「大電化」および1933年のヴァンゼー線電化に際し、1927 - 1933年に電動車688両・制御車465両・附随車223両の計1,376両が、AEG・シーメンス・コッペル・DMVで製造された形式。1927・1930年設計の車両は市街線形、1932年設計の車両はヴァンゼー形と呼ばれる。 1925年設計のET・ES168形(オラーニエンブルク形)をベースとしたもので、車体の長さ16,980 mm, 幅2,871 mmである。前面は3つ折の非貫通3枚窓、側面の窓は位置は1D2D2D2Dで両開き扉を4つ備える。シュタット線形とヴァンゼー形では、リベットの数や前面の窓形状などが異なっている。台車は板台枠式で、電動車の主電動機は出力90 kWのものを4機備える。 1942年にET・EB・ES165形(ETは電動車/Triebwagen, ESは制御車/Steuerwagen, EBは附随車/Baiwagen を表す)の形式が付与され、東ドイツ国鉄時代の1970年に275形に、1992年に475・875形(以下475形)となった。 1965 - 1969年に、ワンマン化改造ならびに前照灯の1灯→2灯化が行なわれた。また、1979年から更新工事が一部車両に実施され、前面が2枚窓になったものがある。こちらは形式が276形100 - 300番台になり、1992年には476・877形(以下476形)になった。また未更新車のうち238両は1984年の西側路線網の西側移管時にBVGに譲渡されて原型のまま更新、さらに東側に残った未更新車の多数が東側Uバーン車両に転用改造されて、未更新のまま壁崩壊を迎えた車両は少数であった。 ET・EB125形 1936 - 1937年に、電動車・附随車ともに18両ずつ36両が製造された。銀行形と呼ばれる。1933年のポツダム線電化に際し、電車の高速化を視野に入れて製造された。 車体・窓配置等はET165形に準じるものの、全面は上半分が傾斜した流線形スタイルとなり、前照灯・尾灯も窓下に2つが配置される。主電動機の出力は 167 kW×4に増強され、設計最高速度140 km/hになった。ただし、営業運転では、最高速度は120 km/hに抑えられた。 1942年に形式ET・EB125形(以下ET125形)が付与された。大戦後の1949年には主電動機の出力を110 kWに変更し、後述のET・EB166形(以下ET166形)に編入。035 - 052になる。 ET・EB166形 1936年に電動車・附随車ともに34両ずつ68両が製造された。同年に実施されたベルリンオリンピックにちなんでオリンピック形と呼ばれる。車体はET125形に準じているが、主電動機の出力は110 kW×4と抑えられている。 1942年に形式ET・EB166形(以下ET166形)が付与された。東ドイツ国鉄時代の1970年には276形000番台に変更。1975 - 1982年に更新工事が実施され、前面が2枚窓になった。ただし、1992年の改番では275形の改造車と異なり後述の277形とともに477・877形(以下477形)となっている。 ET・EB167形 南北地下線の開業・延長にあわせ、1938 - 1941年にかけて、電動車283両、附随車261両の計544両が、アルゲマイネ、コッペル、ヴェグマン、ジーメンスで製造された。基本的にET166形に準じている。 東ドイツ国鉄時代の1970年には277形に変更。1973年から更新工事が実施され、前面が2枚窓になった。1992年の改番では477形となっている。2003年まで使用され、現在は2編成4両が動態保存されている。 なお、これら戦前製の車両のうち大戦後ソビエト連邦に約280両が接収され、同国のモスクワ・キエフ・タリン(エストニア)近郊で使用された。のちにこれらの約半数は返還されている。またポーランド領となったシレジア地方に空襲の激化により疎開していた車両のうち160両がそのままポーランドに帰属し、ダンツィヒ近郊で架線集電式に改造の上で使用された。終戦時の稼動車が約700両まで落ち込んだ中でこれだけの数の車両が接収されたのは復興の上で大きな痛手となった。終戦時に西ドイツ領内に疎開していたごく少数の車両も架線集電式に改造され、ミュンヘン近郊で使用された。 ペーネミュンデ高速鉄道 バルト海沿いのペーネミュンデとツィノヴィッツ(いずれも現在のメクレンブルク=フォアポンメルン州)の間にあった専用線(当時ペーネミュンデで行われていたロケット兵器などの開発のための労働者輸送用に敷設されたもの)の車両を転用したもの。 直流1,100 V 架線集電式であり、ET167形の車体とアルゼンチンのブエノスアイレス地下鉄C線用車両"Siemens O&K"の電気機器(シーメンス製)に準じた設計である。1940 - 1941年に電動車・制御車それぞれ15両 (Trw/Stw 01 - 15) が製造された。1943年8月の空襲で10両が被災したが、このうちの4両が戦後ベルリンでEB167 242 - 243, ET167 284 - 285として復旧している。 専用線は1946年4月に運行を停止、車両はソ連に接収された。いきさつは不明だが、2両は終戦時に西ドイツ領内のニュルンベルクに留置されていた。これは同じくニュルンベルクにあった6両のベルリンSバーン車両とともに改造の上でミュンヘン近郊のイーザルタール線に投入され、ドイツ連邦鉄道 (DB) ET・ES182 01となった。のちに交流化改造を受けET・ES 26 002に、さらに426 002 / 826 602に改番されてマインツ付近で使用された。現在はペーネミュンデの歴史技術情報センターに保存されている。また、ソ連に接収されたうちの14両が東ドイツ国鉄に返還され、改造の上でET167形に編入、286 - 292となる。その後、1966年の更新でET166形に編入され054 - 060となった。 1970年には276形になった。1992年の改番では旧ET125形、ET166形とともに477形に再編入され601 - 608となった。 ET・EB170形
※この「過去の電車」の解説は、「ベルリンSバーン」の解説の一部です。
「過去の電車」を含む「ベルリンSバーン」の記事については、「ベルリンSバーン」の概要を参照ください。
- 過去の電車のページへのリンク