連邦議会での経歴
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「ジェイムズ・G・ブレイン」の記事における「連邦議会での経歴」の解説
ブレインは共和党員として第38アメリカ合衆国議会下院議員に選ばれ、1863年3月4日から1876年7月10日まで連続7期務めた後に辞任した。第41議会から第43議会では下院議長を務めた。第43議会から第45議会までは下院議院運営委員会の委員長であり、その後に4年間以上アメリカ合衆国上院議員となった。 下院はブレインの政治的また議会運営能力にとって適した活躍の舞台だった。議論者として覚悟ができており強力であり、術策に富んでおり、また論争の場でも抜け目がなかった。南北戦争やその後のレコンストラクションの騒々しい政界にあって、その積極的な性格と建設的な才能がうまく活かされた。合衆国から脱退した州の復興手段が数年間連邦議会の中心議題となり、ブレインはそれらの案を形作り議論する指導的な役割を演じた。南部の諸州を政治の仕組みの中に全面的に復帰させるために、その代議員数の算定根拠が大きな問題となった。南部州が解放奴隷から選挙権を剥奪している限り、多くの議席を与えられるべきではないという根拠で、算定根拠を合法の有権者数にすべきという意見が強かった。一方ブレインは算定根拠が有権者ではなく人口に基づかせるべきと主張したが、これは有権者比率が様々である北部州には公平なことだった。また公平な参政権付与によって保護されるべきと主張した。この考え方が結局主流となり、アメリカ合衆国憲法修正第14条には基本的にブレインの提案が採用された。 ブレインは急進派共和党員による南部州に対する軍政府統治計画に反対し、軍政から解放され文民政府を再開するための明確な道筋があると主張した。貨幣で担保された公共債務は紙幣で支払われるべきという主張に対し、議会で最初に反対したのがブレインであり、これが1867年時点で気運と広い支持を得ることになった。帰化したアメリカ市民が母国に戻るときに不忠ということで告発されるという問題で帰化市民の肩を持った。その活動は1870年のアメリカとイギリスの間の条約となり、帰化市民がアメリカ生まれの市民と同じ土俵に立てることになった。 アンドリュー・ジョンソン大統領が1866年にヒュー・B・ユーイング将軍をオランダ大使に指名したとき、ブレインはユーイング指名を撤回し、兄弟のチャールズ・ブレインを任命するよう運動した。ブレインは大統領に対し、ユーイングは「不正な行為」をしていると告げたが、これはブレインとジョンソン大統領の個人的な確執から来たものと考えられる。ブレインはジョン・シャーマン上院議員を含みオハイオ州の著名な政治家達に対して、ブレインの親友でオハイオのローリッフ・ブリンカホフ将軍をその地位につけるためにあらゆる可能性を試すと宣言していたことが露見していた。それでも、ブレインのユーイング将軍指名撤回の要求は成功せず、ユーイングは1870年までその職にあった。 1875年、ブレインは政教分離原則を促進するために宗教学校に公的資金を使うことを禁じる憲法修正条項を提案したとされている。この修正提案は上院で必要とされる3分の2の票にわずか4票及ばず議会の段階で成立しなかったが、各州の過半数が同様な法律を採択し、一般にブレインの修正条項と呼ばれている。この修正条項では、特定の宗派の支配に基づかない限り、公的学校で包括的宗教教育を行うことまでは禁じていない(実際に、公的学校は各州がブレインの修正条項を採択した後でも数年間は、聖書の教えや宗教的教示を教え続けた。)。 カトリックは、ブレインの修正条項を反カトリック的として非難したが、敬虔なプロテスタント、特にメソジスト、バプテストおよび組合教会主義者には強く支持された。 ブレインは1876年の大統領選挙で共和党の指名を得ようとして失敗した。この指名を得ようという時に、リトルロック・アンド・フォートスミス鉄道とノーザン・パシフィック鉄道との関係で、下院議員としての汚職を執拗に告発されたことでダメージを受けた。共和党員の過半数によって、ブレインは完全に身の潔白が証明されたと考えられたが、共和党全国大会ではわずか28票差で大統領候補の指名を逃した。最終的に他の指名候補者の支持がダークホースのラザフォード・ヘイズに集まった結果だった。ブレインはその政敵によって「ブレイン、ブレイン、ジェイムズ・G・ブレイン、メイン州出身の大陸一の嘘つき」と嘲られた。 ブレインは共和党公認でアメリカ合衆国上院議員に指名され、その後選出された。上院議員を4年間務めている間も、その政治行動は衰えなかった。ブレインの提案した法案の中でも通貨法は特に傑出したものだった。以前は紙幣の流通量拡大に反対したが、この時は銀貨切り下げに抵抗した。アメリカの海運業発展を推進し、保護政策は陸と同じように海にも適用されるべきと主張して、寛大な助成金を提唱した。 ブレインは上院議員に再選され1876年7月10日から1881年3月5日まで務め、アメリカ合衆国国務長官となるために辞任した。上院にいる間に、上院公共事業経費節減委員会(第45議会)および上院運営委員会(これも第45議会)の少数派推進者となった。この期間に再度、大統領候補の指名を得ようとした。1880年の共和党全国大会では、ブレインと元大統領ユリシーズ・グラントの支持が拮抗しており、他にオハイオ州のジョン・シャーマンもそこそこの支持者がいた。候補者選びは36回目の投票まで続き、ブレインの友人やシャーマンの友人が結託してジェームズ・ガーフィールドの指名に成功した。
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