近衛師団上陸
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5月29日、近衛師団が台湾に上陸すると、台湾民主国の唐を含む首脳陣は逃げ、台湾民主国に雇われていた広東人傭兵が治安を乱したこともあり、6月14日には台北の住民は治安維持のため日本軍に対して辜顕栄を使節として迎え入れ、台北は無血開城された。6月17日樺山資紀台湾総督は、占領した台北で台湾総督府始政式を執行した。また帰国を求める北部の旧清国軍に対し、樺山は淡水において帰国事業を行った。 当初樺山は占領は容易であると考えていたが、後に上海の英国系新聞ノース・チャイナ・ヘラルドが「日本の犯した大きな過ちは、島に住む客家その他の中国系農民の気性と力を過小評価したことだ」と指摘したように、中南部において抗戦はますます熾烈となった。 台南をまかされていた劉永福を中心にした台湾民主国軍と漢人系住民義勇兵は、日本軍に対し、高山地帯に立てこもってゲリラ戦で応戦した。その際には高山族に対抗するための組織であった隘勇制度が抗日運動の基盤となった。 6月19日、樺山は伊藤博文に「台湾は名義的には日本領土であるが、残留清兵が攻撃をしてくるため外征と変わらない状況なので、台湾に勤める文武諸官員は外征従軍者扱いにしてやってほしい」と、台湾に残った清国の兵が下関条約に違反して攻撃を仕掛けてきている危険な現状を報告し、台湾勤務者の待遇改善を具申した。伊藤博文内閣はこれを8月17日付けで承認した。 樺山は増派しなくとも近衛師団だけで台南まで陥落できると考えていた。しかし新竹を占領した阪井支隊と台北との間の連絡が、ゲリラ戦の影響で20日以上取れなくなり、ゲリラ戦の主力であった平鎮の抗日軍をおとせず、それに呼応して、台北でも反乱がおきると、北部の占領にさえ兵力が不足していることが判明し、樺山は南部攻略を先送りにした。 7月に大本営は増派を決定し、伊藤内閣も7月16日、台湾情勢は「百事至難の境遇に在る」と認識を改め、「速に鎮定の奏功を望」むので「鎮定までの間は法規等に拘泥せず万事敏捷に相運侯筈に申合せ」た八カ条を内閣閣令として通達した。この間樺山は近衛師団を用いて7月29日に旧台北府管内を制圧が完了した。日本軍が土兵や土匪(匪賊)と呼んだ義勇兵は大軍をみたら白旗を揚げて笑顔で迎え入れ、少数になれば後ろから襲いかかって日本軍を攻め立てたために、日本軍は対策として村まるごと殺戮するといった強硬手段に出た。このことがさらなる反発を呼び、抗戦運動を長引かせた。また、山岳地帯は天然の要塞となり、日本は各防衛拠点に人数を分散せざるを得なかった上に十分な情報の通信ができなかったことが、苦戦の直接的な原因とされている。こうした困難は、新聞に掲載された兵士の手紙などによって日本国民にも知らされていた。 さらに大本営は8月6日に台湾総督府条例を定め軍政に施行した。何度も増軍がなされ、最終的には二個師団以上の戦力となった。 台湾中部においては、黎景嵩が中心となって抵抗を行っていたが、彰化は8月末には陥落し、日本軍は雲林地方大莆林に進出した。同地の地主であった簡義は日本軍を抵抗せずに受け入れたが、一部の軍夫らが婦女子を姦淫殺害したために、反旗を翻し、黒旗軍の部隊とともに日本軍を襲ったために、日本軍は北斗渓北岸まで退却した。ノース・チャイナ・ヘラルドによれば、抗日軍はこれをもとに「日本軍は婦女を暴行し、家屋の中を荒らし、田畑を奪う」と宣伝(プロパガンダ)したところ、台湾各地の老若男女は義勇兵として郷土防衛のために抵抗した。これによって日本軍は赤痢・マラリア・脚気などによる兵員不足に対する休養もかね、南方への前進を止め台南に侵攻できたのは10月であった。 劉永福は外国の介入による終戦を狙っていたが、日本軍によって三方から台南府を攻略にかけられると、10月19日、台南府から逃亡して厦門に向かい、台湾民主国軍は最終的に崩壊した。1895年11月18日、樺山総督は台湾平定宣言を東京の大本営に報告し、台湾平定戦は終結した。この戦闘で、日本は約76000人の兵力(軍人約五万、軍夫二万六千人)を投入、死傷者5320名(戦死者164名、病死者4642名、負傷者514名)、さらに軍夫7000人の死者(大谷による推計)を出し、台湾民主国軍をはじめとする抵抗勢力は義勇兵・住民あわせて14000人の死者を出したとされる。
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