近衛文麿への諫言
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憲政功労者の年次合祀法要は、1939年(昭和14年)、1940年(昭和15年)と民政党、政友会合同で行われた。しかし政党主宰の憲政功労者の年次合祀法要は1940年(昭和15年)が最後となった。この年、民政党、政友会など全政党が解散してしまったからである。1940年(昭和15年)7月23日、第二次近衛内閣を組閣したばかりの近衛文麿は、「大命を拝して」と題するラジオ放送を行った。その中で「政党の弊害は二つある。ひとつは立党の趣旨からいって自由主義をとり、民主主義をとり、あるいは社会主義をとっており、根本的な世界観、人生観が日本の国体に相容れないこと。もう一つは結局、党派結成の主要目的は政権争奪のためであって、このような政党は立法府における大政翼賛の道では断じて無い」。と、厳しい政党排撃論を述べた。 この放送後、胎中は近衛に対して長文の諫言の手紙を送った。胎中は、「もし閣下(近衛)の申されることが真実だとしたら、自由党を創始した板垣退助、そして自由党の後身である政友会の初代総裁である伊藤博文、改進党を起した大隈重信、改進党の後身である同志会を結成しようとした桂太郎は、全てわが国の国体に相容れない政党の党首であるからして、乱臣賊子ということになるのではないか」。と追及した。そしてこれまで先覚者が築き上げてきた憲政、政党政治の成果を捨て去り、新体制を打ち立てるといっても果たして上手くいくであろうかと危惧を表明する。 そして1937年(昭和12年)12月23日に行われた浅草本願寺の憲政碑除幕式における近衛の祝辞から、憲政功労者のこれまでの国家に対する功績を称えた部分を引用した上で すなわち閣下は約二年半前においては、極めて常識に富める政治家として憲政先覚者の功績を充分に認めたまへるにあらずや、しかるに今やこれを国体と相容れざる乱臣賊子と見なさる、閣下のご心境はいかにしてかくも変化したまへるや。かかる変転常なきご心境をもって新体制樹立に臨み給ふ、これ実に皇国をして容易ならざる危地に措かんとするものにあらずや… 更に 閣下はヒトラー又はムッソリーニの如き生い立ちの猛者にはあらず。名門の貴公子として人と成り給ひ、死生の巷を往来するの苦労をなめ給へることなし。然るに今や、畏くも明治大帝の創始したまへる憲政の大道より踏み迷ふて前人未到の道を発見せんと努め給ふ、ああ危ういかな。閣下の前途、否、閣下の御一身はとにかくとして、上御一人に対し奉り、また天下万民に対して、万死なお償うにあたわざる危地に皇国を導くにあらざるやを憂慮つかまつり候。されば閣下の新体制樹立には、天下皆共鳴するといえども、小生一人は絶対に共鳴致さざる事をここに申し上げて、閣下のご反省を希う次第にて候。 と、近衛が主導する新体制運動に対する危機感を強調し、政党政治、そして憲政の常道に立ち返るよう諫言した。
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