阪和電気鉄道の車両
(近江鉄道ロコ1100形電気機関車 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/27 07:41 UTC 版)
阪和電気鉄道の車両(はんわでんきてつどうのしゃりょう)では、阪和電気鉄道(JR阪和線の前身)が導入した車両について記述する。なお、阪和電気鉄道が1940年に南海鉄道に合併された後、さらに1944年に旧阪和電気鉄道線である南海山手線が戦時買収されるまでの間に導入された車両についても本項で記述する。
阪和電気鉄道の車両一覧・主要諸元[註 1] | |||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
種別 | 阪和形電車 | 筑波譲受 | 阪和形電車 | 電気機関車・電動貨車 | |||||||||||||
グループ | 戦前形主力 | 戦時増備車 | 南海設計 | 電動貨車 | 電気機関車 | ||||||||||||
形式 | モヨ100 | モタ300 | クヨ500 | クテ700 | クタ750 | クタ800 | モタ3000 | クタ3000 | クタ7000 | クタ600 | モカ2000 | ロコ1000 | ロコ1100 | ED1150 | |||
番号 | 101-107 | 301-320 323-324 | 321-322 | 325-327 | 328-330 | 501-506 | 701-706 | 751 | 801-804 | 3001-3004 | 3001-3007 | 7001-7013 | 601-605 | 2001-2002 | 1001-1003 | 1101 | ED1151[註 2] |
製造年[註 3] | 1930 | 1929-34 | (1933) | 1935 | 1937 | 1930 | 1929-1930 | 1935 | (1929) | (1942-44) | 1941-42 | 1941-43 | 1942 | 1929 | 1930-31 | 1930 | 1943 |
製造所 | 川崎車両 | 日本車輌 | 汽車会社 | 日本車輌 | 日本車輌[註 4] 帝國車輛工業[註 5] 日立製作所[註 6] | 日本車輌 | 東芝 | ||||||||||
全長 | 19306 mm | 16520 mm | 19150 mm | 13036 mm | 13400 mm | 10150 mm | 11000 mm | ||||||||||
全幅 | 2890 mm | 2950 mm | 2692 mm | 2740 mm | 2520 mm | 2880 mm | |||||||||||
全高 | 4043.8 mm | 4365.8 mm | 3883.8 mm | 3799.0 mm | 4365.8 mm | 3942 mm | 3878 mm | 4145.0 mm | 4100 mm | ||||||||
自重 | 47.56 t | 47.07 t | 32.22 t | 31.61 t | 31.96 t | 29.33t[註 7] 29.18t[註 8] | 25.40 t | 50.00 t | 30.00 t | 40.00 t | |||||||
定員(座席) | 140(60) | 150(64) | 120(48) | 150(64) | 100(50)[註 7] 106(54)[註 8] | - | |||||||||||
荷重 | - | 3.05 t | - | 10 t | - | ||||||||||||
台車 | 汽車会社 KS-20 | 日本車輌 D-20 | 汽車会社 KS-20 | 日本車輌 D-20 | 省基本型 | 日本車輌 N-20 | 日本車輌N-20[註 4] 汽車会社KS-20[註 9] 帝国車輛T-20[註 10] 日立H-20[註 6] | 日本車輌 N-20 | 日本車輌 | 日本車輌 棒台枠 | 日本車輌 板台枠 | 東芝 板台枠 | |||||
主制御器 | 東洋電機 ES-504-A | 東洋電機 ES-513-A | 東洋電機 ES-31-B | 東洋電機 ES-93-A | 東洋電機 ES-31-B | 東洋電機 ES-513-A | 東洋電機 ES-93-A | 東洋電機 ES-506-A | 東洋電機 | 東芝 | |||||||
主電動機 | 東洋電機 TDK529-A[註 11] × 4基 | - | 東洋電機 TDK529-A × 4基 | - | 東洋電機 TDK550-B[註 12] × 4基 | 東洋電機 TDK556-A[註 13] × 4基 | 東洋電機 TDK550-D[註 14] × 4基 | 東芝 × 4基 | |||||||||
ブレーキ装置 | WH[註 15] AMU 手ブレーキ | WH[註 16] /三菱電機[註 17] AMU 手ブレーキ | WH AMU 手ブレーキ | 三菱電機 AMU 回生制動 手ブレーキ | 三菱電機 AMU 手ブレーキ | WH ATU 手ブレーキ | 三菱電機 ATU (回生制動) 手ブレーキ | 三菱電機 ATU 手ブレーキ | 三菱電機 AMU 手ブレーキ | 三菱電機 ATU (回生制動) 手ブレーキ | WH AMM 手ブレーキ | 三菱電機[註 18] NABCO[註 19] EL14 発電・回生 制動[註 20] | 三菱電機 AMM 発電制動 手ブレーキ | EL-14B 手ブレーキ | |||
集電装置 | 三菱電機 P-900A × 2基 | 三菱電機 P-900A ×2基[註 21] /×1基[註 22] | 三菱電機 P-900A × 1基 | 東洋電機 TDK C-2 × 2基 | 東洋電機 TDK C-2 × 1基 | - | 東洋電機 TDK C-2 × 1基 | - | 三菱電機 P-900A ×1基 | 東洋電機 TDK C-2 × 2基 | 東洋電機 TDK C-2 × 1基 | 1基 | |||||
|
注釈
- ^ 運転台に続く側面窓の2D(1)の部分が相当する。
- ^ 暫定的にクタ7000同様和歌山向き運転台にのみ、東洋電機製造ES-93-A主幹制御器やM23ブレーキ弁などの運転に必要な機器を搭載した。
- ^ 阪和形電車固有の150 kW級主電動機のほか、複雑な構造の電動カム軸式制御器やU自在弁などの機器の調達は困難であったという[要出典]。
- ^ 車体寸法を山手線規格とするなど、南海本線車両そのままの設計ではない。
- ^ 鉄道省の42系電車は窓高さ870 mm、床面からの高さ800 mmである。
- ^ 直線主体のエッジが立った造形の新京阪鉄道P-6形とは対照的に、重厚かつ落ち着いたヨーロッパ風の外観であるとする意見がある。[要出典]
- ^ 当時市場に流通していたベークライト製のラジオケース(当時の真空管式ラジオのケースには木が多用されていたが、ベークライト製のアール・デコ調のデザインのものもあった。)を思わせる、個性的なスタイルであるとする意見がある。[要出典]
- ^ 重要部品である台枠の設計を変更した場合、認可が遅れる可能性が高く、戦時体制下の酷使に伴う故障続出で逼迫していた当時の車両事情に鑑み、増備スケジュールに悪影響が出るのを防ぐ目的で在来車の設計をそのまま流用したものであったと推測されている。[要出典]
- ^ 公称値。製造元の1社である日本車輌製造が1928年に発行したカタログでは、モタ300形が自重53 t、クテ700形が自重31 tと記載されており、製造上のばらつきを考慮しても電動車は50 t超、制御車は30 t超であったと考えられる。[要出典]が、平坦線主体の良好な線形と大出力で補われた
- ^ 型鋼通し台枠採用など、青山峠越えの関係で軽量化を重視した設計の参宮急行電鉄2200系が軽量化技術のノウハウ不足から[要出典] 、新造直後より強度不足や車体中央部の垂下があり、再三に渡り車体の補強工事を施工したのに対し、阪和形電車は平成初期まで残存したモヨ300形2両を含め、いずれも台枠の垂下は殆どなかった。[要出典]
- ^ 国鉄籍編入後の1956 - 57年に車体更新・機器標準化の一環として運転台拡張工事が行なわれた。
- ^ ES-512-Aでは、電制用の弱め界磁回路は電制常用の関係で当初より搭載されており、また郊外区間での高速運転を想定して、力行用の弱め界磁も搭載を前提に設計されていた。
- ^ 山岳線区用の高野山電気鉄道デ101・デニ501形に搭載されていたドイツのAEG製AUR系制御器をベースに改良を加えて国産化したES603-Aが1931年製のモハ121形等に搭載され[6]、その後阪和や名古屋鉄道などの高速電車用に応用された。
- ^ その後、輸送需要増大に伴う変電所増強に際し、当時最新の水銀式整流器ではなく、旧式ではあるものの構造上余剰電力吸収が可能な特性を備える回転式変流器を選択するなど、回生制動の本格採用へ向けての準備を実施していることをもって、回生制動は当初期待された以上の効果があったと推測する説がある。[要出典]
- ^ 車輪径そのものは当時の電車で一般的な910 mmであった。また、同じ日本車輌製造D-20台車に200馬力主電動機を搭載する南海電第9号形でも床面高は1232 mm、新京阪P-6形は1217 mm、参宮急行電鉄デ2200形は1225 mmであった。
- ^ Brown Boveri & Cie, Baden、現ABBグループ(Asea Brown Boveri, Zurich)
- ^ 吉野鉄道が1924年にスイスから輸入した1形電気機関車が類似品が搭載していたことから、ブラウン・ボベリからの輸入品であったという説がある。[要出典]
- ^ 標準軌間用で背が低い。戦後様々な事情から乗り心地が低下し、その多くが大改修を実施した。
- ^ 阪和電気鉄道開業時点での鉄道省向け電車用標準台車であったDT10などと比較すると50 mm軸距が長い。
- ^ 設計変更の理由は荷重の空満による連結器高さの変動範囲が制限を越えたためではないかとしている。[10]
- ^ Westinghouse Air Brake Co.:あるいはWABCOとも。現Wabtec社。
- ^ Universal Valve
- ^ このブレーキシステムは電磁同期弁を追加してAMUEブレーキ化することにより、長大編成におけるブレーキ応答特性を改善できたが、阪和形電車では電磁同期機能は付加されていない。
- ^ 機器構成により、直通ブレーキと自動空気ブレーキの2モードを切替使用可能。
- ^ General Electric Co., Boston
- ^ Automatic Valve Releaseブレーキ、日本では通称「AMJ」。自動空気ブレーキと直通ブレーキの切替使用が可能。
- ^ 当初は鉄道省の朝倉希一技師の指示で三菱造船および日本エヤーブレーキによりウェスティングハウス・エアブレーキ社のP弁に代わる客車用汎用空気ブレーキシステムが開発され、1928年8月に日本エヤーブレーキによってA動作弁の最初のプロトタイプが完成した。この弁を使用する国鉄客車用ブレーキはAVブレーキ装置と呼称され、翌年度以降制式化されて国鉄客車に採用されている。
- ^ 戦前の鉄道省の電車列車の最大の編成両数は1932年時点で中央線(東京-立川)7両、山手線(東京-田端-赤羽)・京浜線(東京-鶴見)8両、横須賀線(東京-横須賀)7両であった。[14]
- ^ のち常総筑波鉄道を経て関東鉄道筑波線となり、再び筑波鉄道に分社化されて1987年廃止。
- ^ 認可申請上は同年3月に元空気溜め管の追加や制御線引き通しを実施した付随車として一旦竣工したことになっているが、『阪和電気鉄道史』では、「少なくとも公文書上に於いて、クタ800形にはごく短期間であるが「サタ」の時代があったわけで、その時の形式称号・記号番号については「サタ800形」であったのか、あるいは他の番号であったのかは不明である」としている[15]。
- ^ 電化計画は路線近傍の柿岡にある地磁気観測所での観測に直流電化が悪影響を与えるという理由のため[16]、路線延長は不況のためいずれも実現せず、この電車形客車は蒸気機関車に牽引されて運転されていた.。
- ^ キハ301 - 303。1937年5月、日本車輌製造東京支店製。
- ^ 高頻度高速運転を実施していたこと、運用効率が高く設定されていたことや、保守も合理化や効率化が図られていたことの影響によりこの時期には特に電動車の故障が頻発したとされる。[要出典]
- ^ 阪和形電車にはTDK-529Aをはじめ固有の部品が電装品を中心に多く使用され、戦時体制への移行で資材難が深刻化する中で、部品を揃えて電動車として竣工するまでには更に長い時間を要し、のべ12両が申請された電動車については、全車電装を断念して制御車としてひとまず竣工させたが、それでも元からの制御車を含め認可から竣工までには短いもので1年半、長いものでは約3年を要し、後者の場合、阪和時代に計画されたものが、南海鉄道との合併後1年以上を経過してから竣工している。
- ^ ホハフ2850形ホハフ2851 - ホハフ2859のうちの1両、1909年大宮工場製、元日本鉄道[18]
- ^ このことから本形式は木造車でありながら他の制御車と区別無く同一の運用に就いていたことが推測され[要出典]、日本の木造電車でこれほど高速走行路線に充当された例は、営業運転では希有であったとする説がある。
- ^ 1時間定格出力221kWで、吉野鉄道の33パーミル区間での貨物列車牽引に備えて発電ブレーキを装備する
- ^ Nasmyth, Wilson & Co. Ltd., Manchester
- ^ それぞれ、もと大阪鉄道18号機(1897年製)、鉄道省188号機(1888年製)、成田鉄道4号機(1896年製)[22]。
- ^ Southern Pacific Transportation Company (SP)
- ^ 当時の鉄道省の標準的な有蓋車ワム23000形や無蓋車トラ1形は17 t積。
- ^ 1929年8月1日に大阪電気軌道に合併
- ^ この称号改正以前は、この年に阪和超特急の速度記録を破った「こだま号」用国鉄特急形電車151系が20系を割り当てられ、さらにその以前は元信濃鉄道(現大糸線)の買収車両が20番台を割り当てられていた[40]。
- ^ 阪和形以外の買収国電の台車は構造・形態を問わず全てまとめてDT30という国鉄形式となった。
- ^ 阪和電気鉄道時代からのスタッフが多く残っていた鳳区などの現場では、国有化後も阪和時代と変わらず代表形式であるD-20の名で呼んでいた。[要出典]
- ^ 天鉄、のち天王寺鉄道管理局
- ^ 上述の国鉄制式車と同等の形式称号への変更も、この標準化工事の完了に伴って実施されたものであった[要出典]
- ^ 保守を担当する鳳電車区がES-504-Aをはじめとする電動カム軸式制御器の保守経験が長く、初期には故障が多く他区では敬遠されがちであったCS10系を抵抗無く受け入れた[要出典]とされる。また、これは以後、阪和線に70系・72系新造グループといったCS10系制御器搭載車の投入が積極的に実施され、阪和形電車の淘汰に先駆けてCS5を搭載する42系電車が早期に転出した一因となった。[要出典]
- ^ 単色以外では新潟地区向けに赤2号とのツートンカラー(通称新潟色)、ぶどう色2号の車両前面に警戒色として使用された例がある。
- ^ 旧富士身延鉄道の半鋼製電車であるモハ100形・モハ110形→鉄道省/国鉄モハ93形→モハ1200形の12両のうち4両がモハ2250形モハ2250 - モハ2253となったもの[45]。
- ^ 端子電圧675V時定格出力100kW。TDK-529-Aの重量は1基あたり約2tで、歯車などの駆動装置を含めると1両分で約10tに達した。
- ^ このうちモハ2251は制御車代用として使用されていたが、1982年にクハ2251に改称された。なお、取外された主電動機8台は平賀車庫で解体されている[要出典]。
- ^ この際に台車が元のKS-20に戻されている。
- ^ それまでは過走防護および終端防護のみの簡易なATSが設置されているのみであった。
出典
- ^ a b 『阪和電気鉄道史』 p.281
- ^ 『阪和電気鉄道史』 p.285-286
- ^ 『阪和電気鉄道史』 p.286
- ^ 『私鉄買収国電』 p.160-161
- ^ 『阪和電気鉄道史』 p.280-281
- ^ 東洋電機製造 「東洋電機製造百年史」 東洋電機製造 p.225
- ^ 『阪和電気鉄道史』p.234
- ^ 『阪和電気鉄道史』p.221
- ^ 『阪和電気鉄道史』 p.232
- ^ 高田隆雄「台車とわたし 4・昭和時代(戦前)の台車」『鉄道ジャーナル』第97巻、鉄道ジャーナル社、1975年4月。
- ^ 吉岡照雄 『阪急P-6 -つばめを抜いた韋駄天- RM LIBRARY 110』 ネコ・パブリッシング p.37
- ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.137
- ^ 長谷川明 『1950年代の戦前型国電(上) RM LIBRARY 223』 ネコ・パブリッシング p.33
- ^ 『鉄道技術発達史 第5篇』 p.306
- ^ a b 『阪和電気鉄道史』 p.246
- ^ a b c 『阪和電気鉄道史』 p.245
- ^ a b 『阪和電気鉄道史』 p.224
- ^ 鉄道省工作局『車輛形式図、客車、下巻』 p.0-35
- ^ 『阪和電気鉄道史』 p.134
- ^ a b 『阪和電気鉄道史』 p.248
- ^ 『機関車表』 p.18822
- ^ a b c 『機関車表』 p.11518
- ^ 『阪和電気鉄道史』 p.256
- ^ 『阪和電気鉄道史』 p.288-289
- ^ 臼井茂信 『機関車の系譜図 4』 交友社 p.575
- ^ 『阪和電気鉄道史』 p.257-259
- ^ 『私鉄買収国電』 p.123
- ^ a b 『阪和電気鉄道史』p.275
- ^ 奥野利夫 「50年前の電車(VII)」『鉄道史料 第7巻』 鉄道史資料保存会 p.42
- ^ a b 『阪和電気鉄道史』 p.275-276
- ^ 『阪和電気鉄道史』 p.276
- ^ 『阪和電気鉄道史』 p.229-230
- ^ 『阪和電気鉄道史』 p.238, 243
- ^ 『鉄道技術発達史 第5篇』 p.300
- ^ 『私鉄買収国電』 p.125
- ^ 『私鉄買収国電』 p.130
- ^ 『私鉄買収国電 ―その変遷と終焉―』 p.41
- ^ a b c 『私鉄買収国電 ―その変遷と終焉―』 p.41-42
- ^ 『私鉄買収国電』 p.7
- ^ 『私鉄買収国電 ―その変遷と終焉―』 p.43
- ^ 『電車形式図 1960』 p.2-18-20, 40-44
- ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.926
- ^ 長谷川明 『1950年代の戦前型国電(上) RM LIBRARY 223』 ネコ・パブリッシング p.5
- ^ a b 『私鉄買収国電』 p.125-157
- ^ 『私鉄買収国電 ―その変遷と終焉―』 p.21
- ^ 『阪和電気鉄道史』p.210-211
- ^ a b c 『機関車表』 p.11518
- ^ “秩父鉄道、三峰口駅の鉄道車両公園から保存車両を撤去へ”. 鉄道コム. (2019年4月11日) 2019年9月20日閲覧。
- ^ a b “ロコ1101-近江鉄道の電気機関車”. 近江鉄道. 2020年2月1日閲覧。
- ^ a b 『機関車表』 p.11519
- ^ “近江鉄道の電気機関車「無償譲渡」も検討…解体予定の10両”. レスポンス 2020年2月1日閲覧。
- ^ “近江鉄道、ロコ1101の解体作業に着手”. 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース 2020年2月1日閲覧。
- ^ 『阪和電気鉄道史』 p.262
- ^ 『阪和電気鉄道史』 p.135
- ^ 『私鉄買収国電』 p.145
- ^ a b 『私鉄買収国電』 p.158
- 1 阪和電気鉄道の車両とは
- 2 阪和電気鉄道の車両の概要
- 3 概要
- 4 電気機関車・電動貨車
- 5 蒸気機関車
- 6 その後の推移
- 7 脚注
- 阪和電気鉄道の車両のページへのリンク