大阪市電気局100形電車とは? わかりやすく解説

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大阪市電気局100形電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/27 04:15 UTC 版)

大阪市電気局100形電車(おおさかしでんききょく100がたでんしゃ)は、大阪市電気局(のちの大阪市交通局)が1933年5月の高速電気軌道1号線(現・御堂筋線)の部分開業に際して製造された大阪市営地下鉄通勤形電車である。


  1. ^ このため、機器の保安上座席撤去ができず、戦中戦後の混乱期にも座席撤去車は発生していない。
  2. ^ 現在の外幌に相当する設備である。
  3. ^ 近年大阪市交通局が地下鉄で使用する各車両に装着している転落防止柵の製作に当たっては、この安全畳垣の基本設計がほぼそのまま流用されている。
  4. ^ これはニューヨーク市地下鉄の路線構成を範とする計画である。
  5. ^ 現在長堀鶴見緑地線・今里筋線で用いられるミニ地下鉄は、1968年まで大阪市交通局長であった今岡鶴吉氏による、御堂筋地下の西半分に地下鉄を建設する構想からスタートしたものである。
  6. ^ 日本地下鉄協会『SUBWAY 日本地下鉄協会報 第207号』
  7. ^ 製造メーカーがすぐに倒産したため、補修部品の供給が困難になったという事情もあったという。
  8. ^ 阪神電気鉄道が同時期に導入していたイギリス・マリンテレフォン社製高声電話機をデッドコピーして国産化したものが採用された。
  9. ^ 端子電圧750V時、定格出力170kW、定格回転数770rpm、定格電流225A(全界磁)。
  10. ^ P-6形。製造初年は1927年で日本初の200馬力(150kW)級電動機である東洋電機製造TDK-527Aを搭載した。
  11. ^ モタ300・モヨ100形。製造初年1929年。新京阪P-6と同じく京阪電気鉄道の技術陣が計画に参加したため、1,067mm軌間向けながら同形式と姉妹車と言って良い内容を備える。主電動機は同じく200馬力級の東洋電機製造TDK-529A。
  12. ^ 電第9号形(略して電9形とも。後、モハ301形を経てモハ2001形)。製造初年1929年。阪和の開業に対抗すべく新造されたが、架線電圧が直流600Vであったため同じ200馬力級電動機搭載ながら大電流に対応する必要があり、実質的には250馬力(187.5kW)級電動機に相当する内容を備えていた。
  13. ^ デ2200形・デトニ2300形。製造初年1930年。青山峠越えに対処すべく、山岳区間での電圧降下を見込んで端子電圧675V時定格出力200馬力として設計された三菱電機MB-211を搭載する。
  14. ^ ただし、参急2200系のみは端子電圧の設定の相違から、実質165kW≒220馬力級となる。
  15. ^ 阪神急行電鉄920形用。製造初年1934年。ただし、端子電圧600Vで使用されたため、1968年神戸高速鉄道開業に伴う神戸線架線電圧の直流600Vから直流1,500Vへの昇圧で本来の750V定格となるまで、長く定格出力127.5kW相当の扱いであった。
  16. ^ この区間は直流1,500V電化が予定されていた。大阪市営地下鉄の第三軌条集電方式を採る各線が、他に例を見ない直流750V電化となっていたのは、この郊外線区での1,500V動作との複電圧対応が容易になるように、そして第3軌条集電による地下線での12両編成運用時に電圧降下問題が発生しないようにするためであった。また、畳んだ状態のパンタグラフを搭載することが前提で建築限界が定められていたことは、後に10系冷房装置を導入する際に大きな恩恵をもたらした。
  17. ^ これによりポイント通過時でも時間と共に徐々に暗くはなったものの、完全に消灯することなく走行可能となった。先行した東京地下鉄道1000形ではMGは搭載されておらず、無電区間で消灯していたから、これはサービス上大きな進歩であった。なお、このフライホイール搭載は以後の増備車にも踏襲されている。
  18. ^ 全室式の運転台を一端に備える電動車は連結面側のみ、付随車は両端を、それぞれクロスシートとすることが明記されている。
  19. ^ Westinghouse Air Brake Co.:WH社、あるいはWABCOとも。現Wabtec社。
  20. ^ それはその列車が脱線したことを意味する。
  21. ^ ただし、本形式を含め中間車として編成に組み込まれた車両については、構内入れ替えの便を考慮して片方の運転台のみ交換が実施されていた。
  22. ^ 例えば、先行した東京地下鉄道の場合は上野検車区を地上に設けてここから車両を搬入し、続く東京高速鉄道渋谷に地上車庫を設け、ここから車両を搬入した。
  23. ^ 車両工場は1950年5月に阿倍野検車場(三明町。現在の阿倍野区役所付近。1962年3月の我孫子車両工場開設に伴い閉鎖)に高速車両工場が仮設されるまで存在せず、定期検査等は当時あった梅田地下検車場で実施していた。大阪市電が戦時中に空襲による被災車を大量に出したのに対し、本形式を含む高速電気軌道在籍各車が一切被災していないのは、市電と違って狙われやすい地上工場や車庫が無く、全車常時地下線に置かれていて空襲の被害を受けずに済んだことによるところが大きい。
  24. ^ 当時御堂筋は用地買収が進まず梅田周辺が未完成で、回送に使えなかった。
  25. ^ 1956年9月から1959年6月にかけて実施。
  26. ^ 1951年開業の昭和町-天王寺間がオープンカット工法にて施工後、天井に蓋をせずに開業したため、降雨対策が必要となって追加された。
  27. ^ 桜木町事故の教訓で1952年に装着された。
  28. ^ 前面貫通扉左下部に1灯取り付けられていた尾灯を、前面幕板左右端に各1灯装備に変更し、視認性を向上させた。
  29. ^ 1955年にサービス向上を目的として実施された。
  30. ^ 1958年竣工の1200形に合わせ、上部アイボリーホワイト、下部オレンジの2色塗り分けに変更が工場検査周期に合わせて実施された。
  31. ^ 長大編成化による応答性低下や空走時分の過大化対策として1959年11月から1960年4月にかけて実施。運転台のブレーキ制御弁を交換し、床下にB1電空接触器とNo.21電磁給排弁などを付加した。この改造に際しては、AMUE電磁自動空気ブレーキへの改造を予定して用意してあった空きスペースが活用されたという。
  32. ^ 高性能車と極力同じダイヤで運行可能とするため、主電動機の設定を見直して限流値を引き上げ、RMS電流に対応して主電動機の絶縁種別をA種からB種へ変更、界磁切り替え式弱め界磁段(1段)を追加して主回路の抵抗箱を4個から6個に増設、さらに主電動機のベアリングを新品のローラーベアリングで置き換えて起動抵抗を低減することで加速性能と最高速度の向上を図った。1963年12月から1964年3月にかけて順次実施された。
  33. ^ 1959年3月から1962年2月にかけて実施。
  34. ^ これは後の保存車選定に際し大きく影響することとなった。
  35. ^ 片側だけM24-C弁に交換されていた運転台のブレーキ制御弁については、現在もそのまま残置されており、ブレーキの圧力計もこちら側のみ2針式ではなく直通ブレーキの圧力を表示する必要から3針式となっていることが確認できる。
  36. ^ 交通局研修所は現在は中百舌鳥に移転している。
  37. ^ 「鉄道の日」などのイベント等で公開されている。
  38. ^ 『地下鉄100型105号車輌 1輌』(大阪市)
  39. ^ スペシャル|NHK連続テレビ小説「ごちそうさん」WEB取材班が行く!第11回 現存する初期型車両を使った地下鉄ロケ現場に密着!戦火の中、ふ久と赤ん坊を連れてめ以子が地下鉄で逃れるシーンは特殊撮影技術(VFX)で実現!


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