超!よしもと新喜劇
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『超!よしもと新喜劇』(ちょうよしもとしんきげき)は、1997年10月16日から1998年3月12日までTBS系列局で放送されていたコメディ番組である。吉本興業と毎日放送 (MBSテレビ) の共同製作。放送時間は毎週木曜 20:00 - 20:54 (日本標準時)。
- ^ 「バラエティー 吉本+テレビ=「超」 / 浜田尊弘」『新・調査情報passingtime』第9号、東京放送、1998年1月1日、49頁、NDLJP:3479799/26。
- ^ a b 日本民間放送連盟(編)「「新喜劇」のエッセンスを全国に--東京発ではできないユニークな発想で / 田中文夫」『月刊民放』第28巻第4号、日本民間放送連盟、1998年4月1日、8 - 11頁、NDLJP:3471149/6。
- ^ 関東地方では、毎日放送制作の『サモン日曜お笑い劇場』が1962年 - 1963年にNET(現:テレビ朝日)で、朝日放送(現:朝日放送テレビ)制作の『お笑い花月劇場』が1970年 - 1971年にTBSで、ネットチェンジ後の1978年にテレビ朝日で放送されたことがあった。また吉本新喜劇から派生したコメディ番組『日曜笑劇場』(朝日放送制作)が東京12チャンネル(現:テレビ東京)またはテレビ朝日で放送されたことがあった。
- ^ a b c d e f g h 『企業と広告』第24巻第1号、チャネル、1998年1月1日、15頁、NDLJP:2853178/10。
- ^ 『超!よしもと新喜劇』お笑い革命に挑戦、『日経エンタテインメント!』1997年12月号より。(インターネットアーカイブのキャッシュ)
- ^ 第12回 吉田ヒロ(MBS よしもと新喜劇座員インタビュー)より引用
- ^ bsyoshimotoの2022年3月19日のツイート、2022年3月27日閲覧。
- ^ 超よしもと新喜劇 - 脚本データベース
超!よしもと新喜劇
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「超!よしもと新喜劇」の記事における「超!よしもと新喜劇」の解説
それまで吉本新喜劇とはあまり縁の無かった東京都(関東地方)やその他の地域をターゲットにしており、公開収録も東京都世田谷区のTMC砧スタジオで行っていた。スタジオに設営されたセットは、TBSテレビの『8時だョ!全員集合』のような大仕掛けで客席をも巻き込むドタバタ劇という折衷型であった。番組開始時のキャッチコピーは「死ぬ気で、東京。」で、これは本家『よしもと新喜劇』のキャッチコピーである「死ぬ気で、元気。」をもじったものである。 初回視聴率は関東で9.2%、関西で25.3%を記録。 当時TBS系列の木曜20時台は、関東地方での視聴率が他の地域に比べて格段に低かったため、毎日放送が試行錯誤しながら番組制作を続けていた枠であった。しかし、「なにわ流のドタバタ吉本コメディ」が簡単に東京をはじめ特に新喜劇の放送実績が少ない東日本で受け入れられるはずもなく、吉本興業以外の所属で新喜劇経験の無いタレントやゲストを交えた番組進行、そして、従来からの放送地域以外の視聴者にも分かりやすいように調整されたギャグが結果的に中途半端な演出となり、関東地方での視聴率は低く推移。このほか、編集や大仕掛けセットを多用して度の過ぎた演出などが新喜劇ファンを中心に視聴者から不評だったこともあり、本番組の視聴率は関西地方でも低迷した。 同時に、本家公演であるなんばグランド花月での新喜劇にも少なからぬ影響を与えた。座長である内場勝則、辻本茂雄の二枚看板が東京へ単身赴任となり、知名度のあるベテランメンバーの一部も本番組収録で大阪を不在とすることが増えたため、なんばグランド花月での公演が深刻なメンバー不足に陥った。この期間中、なんばグランド花月では公演内容のスケールダウンを余儀なくされ、それに比例して、毎日放送が関西地方で放送する本家番組の視聴率も、後継番組「超コメディ60!」終了し、メンバーが大阪に復帰するまで低迷する事態となった。
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