被葬者と建碑の事情
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被葬者である爨龍顔は正史に記録がないが、碑文によれば字を仕徳(しとく)といい、没年と推定される年から逆算すると東晋の太元9年(384年)に建寧郡(現在の雲南省)に生まれた。 爨氏は三皇五帝の一人である顓頊の子孫であると自称している。これに従うと漢民族ということになるが、『新唐書』南蛮伝に「西爨白蛮」「東爨黒蛮」と見えることをはじめとして「南蛮」の一部族として名が見えることから、元から南方異民族の豪族であるという説もあり、その素性については定説を見ていない。いずれにせよ龍顔の父親は龍驤補国将軍・八郡監軍・晋寧郡太守・建寧郡太守であったといい、この地域の大豪族であったことをうかがわせる。 龍顔は極めてまじめで温厚な人柄であったといい、まさにこの地の有力者である「太守」の息子にふさわしい器量を備えていたという。寧州の刺史が主簿(書記官)職を命じようとしたところ応じず(拒否した理由は不明)、三回別駕従事史(補佐官)に命じられてようやく仕官した。その働きぶりは相当なもので、義熙10年(414年)には州から朝廷に推挙されて郎中(省庁の中間管理職)となった。やがて軍人としての力も現わし、征西鎮将軍の幕僚として、また南蛮府の行参軍職になるなど、着実にその地位を上げていった。この頃には父と同じ建寧郡太守の職も得て、故郷に錦を飾ることとなった。また龍驤将軍・晋寧郡太守をも命じられ、多くの勲章を下賜されるなど、名目ともに地元の有力者としての地位を磐石とした。 東晋が滅び、宋となった後もその地位は安堵されたようで、元嘉9年(932年)には領内の大理周辺で起こった反乱を見事鎮圧、南の名将として名を馳せるに至った。この頃には官位も既存の龍驤将軍の他、護鎮蛮校尉・寧州刺史・邛都県侯となっていた。その後も龍顔は南方の名士としてこの地を統治し、丙戌年=元嘉23年(446年)12月にその生を全うした。享年61。 当初龍顔の息子は父を讃えて碑を建てるつもりであったが、その途中で急死してしまった。このため跡を継いだ孫たちである次男の爨驎紹、三男の爨驎暄、四男の爨驎崇(長男は夭折)を筆頭に、州の協力を受けながら一族が自ら石を調達し、死から12年後の大明2年(458年)9月に爨道慶の碑文によりこの碑を建てることになった。これが「爨龍顔碑」である。
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被葬者と建碑の事情
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被葬者である爨宝子は正史に記録がないが、碑文によれば字は同じく宝子といい、建寧郡(現在の雲南省)に生まれた。爨氏は漢民族を自称しているが、『新唐書』南蛮伝に「西爨白蛮」「東爨黒蛮」と見えることを始めとして「南蛮」扱いされているふしがあり、その素性については定説を見ていない。 幼い頃より聡明であり、長じて州の主簿(書記官)となった。のちに治中、別駕(いずれも刺史の補佐官)を経て、州によって中央に推挙され太守となった。しかしすぐに病を得て死去。享年23であった。 宝子に対する伝記は以上の程度であり、通常書かれている没年すら不明の状態である。また建碑も年月が大亨4年=義熙元年(405年)4月上旬であることが記されているだけで経緯までは書かれておらず、詳しい事情を伺うことは不可能である。 なお建碑年の「大亨4年」は存在しない年号である。これについては当地が辺境であって改元の情報がなかなか伝わりにくかったためと見られている。また「大亨」は東晋を簒奪した桓玄政権下での年号で、東晋王朝復活後に廃されたものであり、その辺りの政治的混乱も関係していると見られる。
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被葬者と建碑の事情
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被葬者である谷朗は正史に記録がないが、碑文によれば字を義先(ぎせん)といい、没年から逆算すると建安23年(218年)に桂陽郡の耒陽県に生まれた。呉に仕官し、中央と地方で務めた後、九真郡(現在のベトナム・ハノイ周辺)の太守となり、善政を布いた。しかし鳳凰元年(272年)4月に病により死去した。 詳細は「谷朗」を参照 建碑の詳しい経緯は不明であるが、その遺体は生まれ故郷の耒陽県に運ばれ、埋葬の際にこの碑が建てられることになったとみられる。これが「谷朗碑」である。
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被葬者と建碑の事情
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被葬者である高貞は正史には記録がないが、碑文によれば字を羽真(うしん)といい、没年から逆算すると太和13年(489年)に渤海郡の蓨県(現在の河北省衡水市景県)に生まれた。高氏は正史にもその名が多く見られる北魏の名門貴族であるが、その中でも渤海の高氏は特に名門であったという。父は高偃(高颺の子)。孝文帝の皇后の文昭皇后高照容の甥にあたり、姉は宣武帝の皇后高英であった。 20歳の時、その有能を認められて秘書郎(皇室の図書を管理する職)に登用された。後に孝明帝が皇太子として立太子すると、太子洗馬職(皇太子の先駆けをする職)を命じられ、一族ともに権勢を誇った。しかし病を得て、延昌3年(514年)4月26日に死去。享年26であったという。 高貞の夭折を知った孝明帝は極めて悲しみ、死後9年経った正光4年(523年)に「営州刺史」の官職を追贈するとともに墳墓を整え、墓碑を刻むこととした。これが「高貞碑」である。
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被葬者と建碑の事情
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袁敞も参照のこと 碑文によれば、袁敞は父親の袁安と同じ汝陽(現在の河南省周口市商水県)出身で、孟子の易を学んだ人物であった。仕官して最初の任官は河南尹子であった。その後除郎中、黄門侍郎、侍中、歩兵校尉となり、ついに太僕となった。その後、元初年間(114年-120年)に死去した。享年不明。 碑そのものから伝えられる袁敞の情報は以上のものだけである上、後述するとおり碑の破損が著しく、ほとんど年月を読むことが出来ない。実際には父親ほどではないにせよ、兄の袁京とともに歴史に名前を残している人物なのであるが、この碑文からはその面影は全く読みとれない。建碑の事情も全く分からない状態である。
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被葬者と建碑の事情
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袁安の項も参照のこと 碑文によれば、袁安は汝陽(現在の河南省周口市商水県)の人で、孟子の易を学んだ人物であった。永平3年(60年)に除郎中となったのを初めとして、翌年4年には除給仕謁者となった。永平5年(62年)には地方官に転出して東海陰平長となり、10年(67年)には東平任城令、13年(70年)年末には楚郡太守となった。 その後、永平17年(74年)に再び中央に戻ることになり、河南尹となった。建初8年(83年)には太僕、元和3年(86年)には司空、翌年には司徒となって最高位まで昇りつめ、和帝の元服式にも呼ばれたという。そして永元4年(92年)3月に死去した。享年不明。 碑そのものから伝えられる袁安の情報は以上のものだけである。実際には袁安は汝南袁氏の始祖、そして名宰相として著名な人物で、数々の逸話が残っているがそのようなことは一切書かれていない。また、建碑の事情も全く分かっていない。
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