被葬者と建碑の事情とは? わかりやすく解説

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被葬者と建碑の事情

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:14 UTC 版)

爨龍顔碑」の記事における「被葬者と建碑の事情」の解説

被葬者である爨龍顔正史記録がないが、碑文によれば字を仕徳(しとく)といい、没年推定される年から逆算する東晋太元9年384年)に建寧郡現在の雲南省)に生まれた。 爨氏は三皇五帝一人である顓頊の子孫であると自称している。これに従うと漢民族ということになるが、『新唐書』南蛮伝に「西爨白蛮」「東爨黒蛮」と見えることをはじめとして南蛮」の一部族として名が見えることから、元から南方異民族豪族であるという説もあり、その素性について定説見ていない。いずれにせよ龍顔父親龍驤補国将軍八郡監軍晋寧郡太守建寧郡太守であったといい、この地域大豪であったことをうかがわせる龍顔極めてまじめで温厚な人柄であったといい、まさにこの地の有力者である「太守」の息子にふさわしい器量備えていたという。寧州刺史主簿書記官)職を命じようとしたところ応じず(拒否した理由不明)、三回別駕従事史(補佐官)に命じられてようやく仕官した。その働きぶりは相当なもので、義熙10年414年)には州から朝廷推挙され郎中省庁中間管理職となった。やがて軍人としての力も現わし征西将軍幕僚として、また南蛮府の行参軍職になるなど、着実にその地位上げていった。この頃には父と同じ建寧郡太守の職も得て故郷に錦を飾ることとなった。また龍驤将軍晋寧郡太守をも命じられ多く勲章下賜されるなど、名目ともに地元有力者としての地位磐石とした。 東晋滅び、宋となった後もその地位安堵されたようで、元嘉9年932年)には領内大理周辺起こった反乱を見事鎮圧、南の名将として名を馳せる至ったこの頃には官位既存龍驤将軍の他、護鎮蛮校尉寧州刺史邛都県侯となっていた。その後龍顔南方名士としてこの地を統治し丙戌年=元嘉23年446年12月にその生を全うした享年61当初龍顔息子は父を讃えて碑を建てるつもりであったが、その途中で急死してしまった。このため跡を継いだ孫たちである次男の爨驎紹、三男の爨驎暄、四男の爨驎崇(長男夭折)を筆頭に、州の協力を受けながら一族が自ら石を調達し、死から12年後大明2年458年9月に爨道慶の碑文によりこの碑を建てることになった。これが「爨龍顔碑」である。

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被葬者と建碑の事情

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:13 UTC 版)

爨宝子碑」の記事における「被葬者と建碑の事情」の解説

被葬者である爨宝子は正史記録がないが、碑文によれば字は同じく宝子といい、建寧郡現在の雲南省)に生まれた。爨氏は漢民族自称しているが、『新唐書』南蛮伝に「西爨白蛮」「東爨黒蛮」と見えることを始めとして「南蛮扱いされているふしがあり、その素性について定説見ていない。 幼い頃より聡明であり、長じて州の主簿書記官となった。のちに治中、別駕いずれも刺史補佐官)を経て、州によって中央推挙され太守となった。しかしすぐに病を得死去享年23であった。 宝子に対す伝記は以上の程度であり、通常書かれている没年すら不明の状態である。また建碑年月大亨4年義熙元年405年4月上旬であることが記されているだけで経緯までは書かれておらず、詳しい事情を伺うことは不可能である。 なお建碑年の「大亨4年」は存在しない年号である。これについては当地辺境であって改元情報がなかなか伝わりにくかったためと見られている。また「大亨」は東晋簒奪した桓玄政権下での年号で、東晋王朝復活後廃されたものであり、その辺りの政治的混乱関係していると見られる

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被葬者と建碑の事情

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:06 UTC 版)

谷朗碑」の記事における「被葬者と建碑の事情」の解説

被葬者である谷朗正史記録がないが、碑文によれば字を義先(ぎせん)といい、没年から逆算する建安23年218年)に桂陽郡耒陽県に生まれた。呉に仕官し中央地方務めた後、九真郡現在のベトナム・ハノイ周辺)の太守となり、善政布いた。しかし鳳凰元年272年4月に病により死去した詳細は「谷朗」を参照 建碑の詳しい経緯不明であるが、その遺体生まれ故郷耒陽県に運ばれ埋葬の際にこの碑が建てられることになったとみられる。これが「谷朗碑」である。

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被葬者と建碑の事情

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:04 UTC 版)

高貞碑」の記事における「被葬者と建碑の事情」の解説

被葬者である高貞は正史には記録がないが、碑文によれば字を羽真(うしん)といい、没年から逆算する太和13年489年)に渤海郡蓨県現在の河北省衡水市景県)に生まれた高氏正史にもその名が多く見られる北魏名門貴族であるが、その中で渤海高氏は特に名門であったという。父は高偃(高颺の子)。孝文帝皇后文昭皇后高照容の甥にあたり、姉は宣武帝皇后高英であった20歳の時、その有能認められ秘書郎皇室図書管理する職)に登用された。後に孝明帝皇太子として立太子すると、太子洗馬職(皇太子先駆けをする職)を命じられ一族ともに権勢誇った。しかし病を得て、延昌3年514年4月26日死去享年26であったという。 高貞の夭折知った孝明帝極めて悲しみ死後9年経った正光4年523年)に「営州刺史」の官職追贈するとともに墳墓整え墓碑を刻むこととした。これが「高貞碑」である。

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被葬者と建碑の事情

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/10 08:47 UTC 版)

袁敞碑」の記事における「被葬者と建碑の事情」の解説

袁敞参照のこと 碑文によれば袁敞父親袁安と同じ汝陽現在の河南省周口市商水県出身で、孟子の易を学んだ人物であった仕官し最初任官河南尹であったその後郎中黄門侍郎侍中歩兵校尉となり、ついに太僕となったその後元初年間114年-120年)に死去した享年不明。 碑そのものから伝えられる袁敞情報は以上のものだけである上、後述するとおり碑の破損著しく、ほとんど年月を読むことが出来ない実際に父親ほどではないにせよ、兄の袁京とともに歴史に名前を残している人物のであるが、この碑文からはその面影は全く読みとれない建碑の事情も全く分からない状態である。

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被葬者と建碑の事情

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/10 08:39 UTC 版)

袁安碑」の記事における「被葬者と建碑の事情」の解説

袁安の項も参照のこと 碑文によれば袁安汝陽現在の河南省周口市商水県)の人で、孟子の易を学んだ人物であった永平3年60年)に除郎中となったのを初めとして、翌年4年には除給仕謁者となった永平5年62年)には地方官転出し東海陰平長となり、10年67年)には東平任城令、13年70年年末には楚郡太守となったその後永平17年74年)に再び中央に戻ることになり、河南尹となった建初8年83年)には太僕元和3年86年)には司空翌年には司徒となって最高位まで昇りつめ、和帝元服式にも呼ばれたという。そして永元4年92年3月死去した享年不明。 碑そのものから伝えられる袁安情報は以上のものだけである。実際に袁安汝南袁氏始祖、そして名宰相として著名な人物で、数々逸話残っているがそのようなことは一切書かれていないまた、建碑の事情も全く分かっていない。

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