芸界入り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:08 UTC 版)
終戦後、徳三は被災地の瓦礫(がれき)の片付けや建物解体など、日雇いの土木作業に従事したのち、鋳物(いもの)工場に就職したが、ある時「好きなことをして死のう、そうせな損や」と思い、「死んだときに新聞に名前が出る(略)、ちょっとでも人に知ってもらえる」として芸人になることを思い立った。「漫才は(略)相方と喧嘩するやろし、噺家ならその心配はない」として、落語家を目標に定めた。 徳三はこの頃、毎月のように大阪の寄席に出掛けて落語を聞いており、5代目笑福亭松鶴の『尻餅』を聞き、餅つきを請け負う賃搗き屋が火に当たりながら相撲甚句を歌う様子を演じる姿を見て、「おっ師匠はんの前に、火がボーッと燃え上がったような」気がして、「客席でブルブルッと身震いするほど、ええなあと」感じたことがあった。また雑誌『新演芸』で正岡容による5代目松鶴の評論を読み、ネタの出来を細かくノートにつけていることを知ると「落語にたいする愛情と情熱の深さ」を感じた。こうして「入門するならここや」と決意を固め、当時、松鶴が出演していた寄席「戎橋松竹」に飛び込み、支配人を通じて面会を申し入れた。楽屋で毛布をかぶって寝ていた5代目は、徳三を見て起き上がるなり、「ご飯食べられへんで」とつぶやいた。「それはもうわかってます」と答えた徳三に、5代目は「そうか。そんなら明日からおいで」と応じた。1948年6月4日、または7日のエピソードで、これ以降、自伝に記した若手時代の事柄に比較的精細な日付をあてたのは、入門当初の徳三が稽古ネタや演じた場所・日付・報酬などを細かくA5判の大学ノートにつけていたためである。 入門から数日後の6月17日または6月19日に、徳三は初舞台を踏んだ。寺田町の大阪市交通局寮で、本名のまま『寄合酒』を演じた。徳三は師匠の家に住み込んだり通ったりすることなく、戎橋松竹の楽屋に通って弟子修行をおこなった。師匠には楽屋の片隅で小声で稽古をつけてもらい、そのかたわら、兄弟子の笑福亭光鶴(のちの6代目笑福亭松鶴)とともに囃子場を手伝った。のちに松之助は、この時期に一度だけ「笑福亭徳利」という名で出たことを回想している。入門年の9月、5代目から「この名前やったら続くやろ」と、光鶴の前名だった「松之助」を与えられる。1950年1月1日の京都祇園会館での高座をへて、11日の京都富貴亭が寄席での正式デビューとなった。寄席出演だけでは生活できなかったため、出番のない日は土木作業の日雇い労働を続けていた。 寄席で高座に上がって半年後の7月、師匠・5代目松鶴が亡くなった。さらに、母親が落語家をやめるよう強く主張したことにショックを受け、服薬自殺を図るが、酒を飲んでいたため薬を嘔吐し未遂に終わる。松之助は母との不和に関して、当時の若手の指導的役割だった4代目桂米團治に相談したところ、自分の邸で「お金のあるときは不在、お金がなくなれば在宅」の「自由居候」をしてはどうかと提案され、松之助は下座囃子の見波よしとともに、邸宅の2階に1年ほど寄寓する。松之助は4代目米團治から9つのネタ(後述)や、芸人としての心構えを教わった。 NHKラジオ大阪放送局の『上方演芸会』の前説を担当した縁で、同局の1951年9月18日放送の『若手演芸家の時間』で放送デビューすることになった。そこで米團治から習った 『江戸荒物』を演じた。 1952年3月から1956年1月にかけ、阪急東宝グループの小林一三の発案で、宝塚第二劇場において「宝塚若手落語会」が開催された。松之助は宝塚で軽演劇の公演に参加しながら(後述)、ここで落語の腕を磨いた。1957年4月には、上方落語協会の結成に参加(のちに退会)。
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