練習内容、試合態度
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特別なスキルもなく、いわゆるノンキャリアで入門したにも関わらずトップレスラーとなりえたのは、誰よりも練習に励んでいたからだとも言われている。全日本時代にジャイアント馬場の付き人としてハワイへ行った際、ひたすらトレーニングしていたのを見かねた馬場が「休むのも練習の内だから休め」と命令したほどである。前座時代に試合前のスパーリングで足をケガして歩けなくなった際にも馬場に試合の出場を志願したが、「今日来てくれるお客さんは、ジャンボ鶴田、天龍、タイガーマスクを観に来ているんだ。お前を観に来てるんじゃないんだよ。でもお前がトップに立った時、もう休むことはできないんだ。だから今は休めるから今日は休め」と説得されている。また、全日本プロレス中継で解説していた馬場に「小橋は趣味が練習、職業はプロレスラー」と言わしめたこともある。若手の頃は日本人選手だけでなく、全日本に参戦していた外国人選手ともトレーニングを積み、当時全盛だったロード・ウォリアーズの両者から、当時日本では浸透していなかったウェイト・トレーニングの理論を教わったり、ディーンとジョーのマレンコ兄弟とサブミッションのトレーニングを積んだり、アマチュア・レスリングでオールアメリカン入りした経験を持つスティーブ・ウィリアムスとアマレスのスパーリングを行ったりした。トップとなって以降も練習に手を抜かず、道場には若手の誰よりも早く来て汗を流した。秋山やKENTAでさえ、小橋の練習に付き合いオーバーワークで病院へ運ばれたという逸話がある。同じく2002年の復帰直前KENTAとハワイ合宿を敢行していた際、本当に一日中ジムへ篭っていたためKENTAが驚愕し「最後の日に土産を買う時間だけはください」と懇願したという話もある。 全日本時代、小橋の試合を解説していた川田が「あいつを殺すには刃物は要らない。ダンベルを取り上げればいい」と発言したことがあり、彼の練習好きを端的に表す名言として知られている。全日本での若手時代に異常とも思える練習熱心さを見て「バカじゃないのか」と嘲笑した中堅選手たちに対し、当時既にトップレスラーだった天龍源一郎が「おまえら笑ってるけどな、今にこいつに食わせてもらう日が必ず来るぞ」と言ったことも有名である。 1997年1月20日、大阪府立体育会館での三沢を挑戦者として迎える三冠戦前日、小橋は母親に電話をかけ「俺が死んでも三沢さんを恨まないでくれ」と伝えた。試合後はスポーツ番組へ2人とも生出演する予定だったが、小橋は病院へ直行したため、結局番組は三沢のみの出演となった。 観客やマスコミの前で弱みを見せることが殆ど無い。唯一長期離脱に入る直前の2001年1月18日を除いては、テーピングした膝を絶対にマスコミに撮らせなかった。2006年2月11日の「佐々木健介デビュー20周年記念試合」(後楽園ホール)にて、天龍の椅子攻撃により唇から歯が突き抜け大量の血が流れたが、試合途中に焦って駆けつけ治療しようとするトレーナーの浅子覚を笑顔で制し、触らせなかった。試合後も用具を持ってリング上までやって来た浅子を止め、勝ち名乗りとほぼ全選手による記念撮影まで参加し、最後まで観客の見える所では治療を受けなかった。 2004年、2005年の東京ドーム大会ではどちらも壮絶な試合を繰り広げたものの、翌日から元気にトレーニングを開始している。2004年から2005年にかけて東京スポーツ新聞の一面企画として特訓シリーズを開始。ゲーセン特訓、北海道蟹特訓など常軌を逸したトレーニングを行った、2005年の東京ドーム大会で佐々木健介とのシングルマッチを行った翌日には、「肉体的にはやっぱりキツイけど、翌日にフリーの佐々木選手は試合があるとレフェリーの西永秀一に聞いたので、負けられないと思って道場に来た。でも、練習を始めた頃に西永が走ってきて『佐々木選手は試合がありませんでした』と言うもんだから、仕方がないから練習して帰った」そうである。一方の佐々木健介は小橋との試合で興奮したためか、試合後の控え室で早速チューブトレーニングや腕立てに励んでいた。 若手時代に全日本のお家騒動で海外修行へ行けなかったため、海外での試合に強く憧れていた。2005年、GHCを失ったことから身軽になった小橋は海外での試合を訴えるようになる。同年9月20日、遂にアメリカに渡った。アトランタからセントルイスに向かう飛行機内では(許可を得た後)上半身裸でトレーニングを開始し女性乗務員に「グレートマッスル!!」と驚かれていたが、同性愛者と思われる男に股間を触られ、流石の小橋もこれには堪えかねたか「アメリカは怖い」と呟いた。しかし、目的地につくと午後11時にもかかわらず、開口一番「ジム開いてないの?」と言ってのけた。 2006年、腹腔鏡下手術からしばらくした後、8月に医師から許可が出てリハビリを開始したが、そのリハビリとはウエイトトレーニングのことであった。一般にウエイトトレーニングはプロレスの練習の一つとして捉えられているが、小橋本人にとっては、受身やスパーリングができるようになった段階でプロレスの練習を再開できたという認識のようである。手術後100kg近くまで落ちた体重は、リハビリと術後経過による食事制限の緩和によって徐々に元の体重(115kg前後)に戻っていた。 入院した際に、三沢は「病室にダンベルを持ち込ませるな」と全選手に命令をしていたと言われている。 2009年6月14日、対戦相手に合計126発のチョップを披露。三沢光晴への追悼とした。
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