練習内容、試合態度とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 練習内容、試合態度の意味・解説 

練習内容、試合態度

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 20:09 UTC 版)

小橋建太」の記事における「練習内容、試合態度」の解説

特別なスキルもなく、いわゆるノンキャリア入門したにも関わらずトップレスラーとなりえたのは、誰よりも練習励んでいたからだとも言われている。全日本時代ジャイアント馬場付き人としてハワイ行った際、ひたすらトレーニングしていたのを見かねた馬場が「休むのも練習の内だから休め」と命令したほどである。前座時代試合前のスパーリングで足をケガして歩けなくなった際にも馬場試合出場志願したが、「今日来てくれるお客さんは、ジャンボ鶴田天龍タイガーマスクを観に来ているんだ。お前を観に来てるんじゃないんだよ。でもお前がトップ立った時、もう休むことはできないんだ。だから今は休めるから今日休め」と説得されている。また、全日本プロレス中継解説していた馬場に「小橋趣味練習職業プロレスラー」と言わしめたこともある。若手の頃は日本人選手だけでなく、全日本参戦していた外国人選手ともトレーニング積み当時全盛だったロード・ウォリアーズ両者から、当時日本では浸透していなかったウェイト・トレーニング理論教わったり、ディーンジョーのマレンコ兄弟サブミッショントレーニング積んだり、アマチュア・レスリングオールアメリカン入りした経験を持つスティーブ・ウィリアムスアマレススパーリング行ったりした。トップとなって以降練習に手を抜かず、道場には若手の誰よりも早く来て汗を流した秋山KENTAでさえ、小橋練習付き合いオーバーワーク病院運ばれたという逸話がある。同じく2002年復帰直前KENTAハワイ合宿敢行していた際、本当に一日中ジム篭っていたためKENTA驚愕し最後の日土産を買う時間だけはください」と懇願したという話もある。 全日本時代小橋試合解説していた川田が「あいつを殺すには刃物要らないダンベル取り上げればいい」と発言したことがあり、彼の練習好きを端的に表す名言として知られている。全日本での若手時代に異常とも思える練習熱心さを見てバカじゃないのか」と嘲笑した中堅選手たち対し当時既にトップレスラーだった天龍源一郎が「おまえら笑ってるけどな、今にこいつに食わせてもらう日が必ず来るぞ」と言ったことも有名である。 1997年1月20日大阪府立体育会館での三沢挑戦者として迎え三冠戦前日、小橋母親電話をかけ「俺が死んで三沢さん恨まないでくれ」と伝えた試合後はスポーツ番組2人とも生出演する予定だったが、小橋病院直行したため、結局番組三沢のみの出演となった観客マスコミの前で弱み見せることが殆ど無い。唯一長期離脱に入る直前2001年1月18日除いては、テーピングした膝を絶対にマスコミに撮らせなかった。2006年2月11日の「佐々木健介デビュー20周年記念試合」(後楽園ホール)にて、天龍椅子攻撃により唇から歯が突き抜け大量の血が流れたが、試合途中焦って駆けつけ治療しようとするトレーナー浅子覚笑顔制し触らせなかった。試合後も用具持ってリング上までやって来た浅子止め勝ち名乗りとほぼ全選手による記念撮影まで参加し最後まで観客見える所では治療を受けなかった。 2004年、2005年東京ドーム大会でどちらも壮絶な試合繰り広げたものの、翌日から元気トレーニング開始している。2004年から2005年にかけて東京スポーツ新聞一面企画として特訓シリーズ開始ゲーセン特訓北海道特訓など常軌を逸したトレーニング行った2005年東京ドーム大会で佐々木健介とのシングルマッチ行った翌日には、「肉体的にやっぱりキツイけど、翌日フリー佐々木選手試合があるとレフェリー西永秀一聞いたので、負けられない思って道場に来た。でも、練習始めた頃に西永走ってきて『佐々木選手試合がありませんでしたと言うもんだから仕方がないから練習して帰った」そうである。一方佐々木健介小橋との試合興奮したためか、試合後の控え室で早速チューブトレーニングや腕立て励んでいた。 若手時代全日本お家騒動海外修行行けなかったため、海外での試合強く憧れていた。2005年GHC失ったことから身軽になった小橋海外での試合訴えるようになる同年9月20日遂にアメリカ渡ったアトランタからセントルイスに向かう飛行機内では(許可得た後)上半身裸でトレーニング開始し女性乗務員に「グレートマッスル!!」と驚かれていたが、同性愛者思われる男に股間触られ、流石の小橋もこれには堪えかねたか「アメリカは怖い」と呟いた。しかし、目的地につくと午後11時にかかわらず開口一番ジム開いてないの?」と言ってのけた。 2006年腹腔鏡下手術からしばらくした後、8月医師から許可出てリハビリ開始したが、そのリハビリとはウエイトトレーニングのことであった一般にウエイトトレーニングプロレス練習一つとして捉えられているが、小橋本人にとっては、受身スパーリングができるようになった段階プロレス練習再開できたという認識のようである。手術後100kg近くまで落ちた体重は、リハビリ術後経過による食事制限緩和によって徐々に元の体重(115kg前後)に戻っていた。 入院した際に、三沢は「病室ダンベル持ち込ませるな」と全選手命令をしていたと言われている。 2009年6月14日対戦相手合計126発のチョップ披露三沢光晴への追悼とした。

※この「練習内容、試合態度」の解説は、「小橋建太」の解説の一部です。
「練習内容、試合態度」を含む「小橋建太」の記事については、「小橋建太」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「練習内容、試合態度」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「練習内容、試合態度」の関連用語

練習内容、試合態度のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



練習内容、試合態度のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの小橋建太 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS