第三巻「表象としての世界の第二考察」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/11 08:17 UTC 版)
「意志と表象としての世界」の記事における「第三巻「表象としての世界の第二考察」」の解説
~根拠の原理に依存しない表象、すなわちプラトンのイデア、芸術の客観~ 第30節 意志の客体性の各段階がプラトンのイデアにあたる。 個別の事物はイデアの模像であり、無数に存在し、たえず生滅しているが、イデアはいかなる数多性も、いかなる変化も知らない。 第31節 カントとプラトンの教えの内的意味と目標とは完全に一致している。 第32節 プラトンのイデアは表象の形式下にあるという一点においてカントの物自体と相違する。 第33節 認識は通常、意志に奉仕しているが、頭が身体の上にのっている人間の場合だけ、認識が意志への奉仕から脱却する特別の事例がありうる。 第34節 永遠の形相たるイデアを認識するには、人は個体であることをやめ、ただひたすら直観し、意志を脱した純粋な認識主観であらねばならない。 第35節 イデアのみが本質的で、現象は見せかけの夢幻的存在でしかない。それゆえ歴史や時代が究極の目的をそなえ、計画と発展を蔵しているというような考え方はそもそも間違いである。 第36節 イデアを認識する方法は芸術であり、天才の業である。 天才性とは客観性であり、純粋な観照の能力である。 天才性と想像力。天才と普通人。インスピレーションについて。天才的な人は数学を嫌悪する。天才的な人は怜悧ではなく、とかく無分別である。天才と狂気。 狂気の本質に関する諸考察。 第37節 普通人は天才の眼を借りてイデアを認識する。 第38節 対象がイデアにまで高められるという客観的要素と、人間が意志をもたない純粋な認識主観にまで高められるという主観的要素と、この二つの美的要素が同時に出現したときにはじめてイデアは把握される。十七世紀オランダ絵画の静物画。ロイスダールの風景画。回想の中の個物の直観。光はもっとも喜ばしいものであり、直観的認識のための条件である。ものが水に映ったときの美しさ。 第39節 崇高感について。 第40節 魅惑的なものについて。 第41節 美と崇高との区別。人間がもっとも美しく、人間の本質の顕現が芸術の最高目標であるが、いかなる事物にも、 無形なものにも、無機的なものにも、人工物にさえ美はある。自然物と人工物のイデアに関するプラトンの見解。 第42節 イデア把握の主観的側面から客観的側面へしだいに順を追って、以下各芸術を検討していきたい。 第43節 建築美術と水道美術について。 第44節 造園美術、風景画、静物画、動物画、動物彫刻について。 第45節 人間の美しさと自然の模倣について。優美さをめぐって。 第46節 ラオコーン論。 第47節 美と優美とは彫刻の主たる対象である。 第48節 歴史画について。 第49節 イデアと概念との相違。芸術家の眼の前に浮かんでいるのは概念ではなく、イデアである。不純な芸術家たちは概念を起点とする。 第50節 造形芸術における概念、すなわち寓意について。象徴、標章について。詩文芸における寓意について。 第51節 詩について。詩と歴史。昔の偉大な歴史家は詩人である。伝記、ことに自伝は歴史書よりも価値がある。自伝と手紙とではどちらが多く嘘を含んでいるか。伝記と国民史との関係。抒情詩ないしは歌謡について。小説、叙事詩、戯曲をめぐって。詩芸術の最高峰としての悲劇。悲劇の3つの分類。 第52節 音楽について。 ショーペンハウアーは、イデア (Idee) について、表象において範型として表現された意志であると位置づけている。イデアは模倣の対象として憧れを呼び覚まし未来をはらむものであることから、概念は死んでいるのに対してイデアは生きているといわれる。 このイデアは段階的に表現されるものであり、これにあたるのは、無機界では自然力、有機界では動植物の種族、部分的には人間の個性であるといわれる。存在を求める闘争においては勝利したイデアは、その占拠した物質が別のイデアに奪取されるまでは、己自身を個体として表現するものとされる。ここでは個体は変遷するものであるが、イデアはあくまでも不変であるとされる。 矛盾が支配している未完成な現実の世界に対しては、完成したイデアの世界には調和がある。そこでイデアの世界において芸術に沈潜した人は、意志なき、苦痛なき喜びを少なくとも一時的には得るであろうといわれる。
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