第三帝国の外相として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 07:07 UTC 版)
「ヨアヒム・フォン・リッベントロップ」の記事における「第三帝国の外相として」の解説
1938年2月4日、リッベントロップはノイラートの後任として外務大臣に就任する。この外相指名はドイツの外交路線がより急進的な方向に向かったことを意味する。戦争については慎重だったノイラートと対照的に、リッベントロップは1938年から1939年にかけてはっきりと戦争を支持している。ムッソリーニ曰く「リッベントロップはドイツに厄難をもたらす一人だ。彼はあちこちで戦争を説くが、敵国が誰とも、目的が何とも言わない」とリッベントロップを嫌っていたが、ムッソリーニがヒトラーにあてた書簡によれば、「リッベントロップは有能な外交官である」と表向きでは評価しているように見せていた。ヒトラーもそれに応じてリッベントロップを褒めるような書簡を送っている。 リッベントロップはイギリス首相ネヴィル・チェンバレンを嫌悪しており、宥和政策をドイツが国際社会において正当な地位に就く障害になると考えていた。またミュンヘン協定はドイツ外交上の敗北であるとまで考えていた。なぜなら、彼の欲した戦争なしでドイツがズデーテンランドを手中に収めたからである。彼は外務省の重要な地位にあった多くの外交官を罷免し、後任に彼自身の「事務所」の出身者を充てた。1943年までに、外務省内のポストの32%は「事務所」出身者で占められるようになっていた。 1938年12月6日、リッベントロップはパリを訪問、フランス外相ジョルジュ・ボネ(英語版)と共に一見画期的、しかし実態は空虚な仏独親善共同声明に署名する。この会談の席上、ボネが「東ヨーロッパがドイツの勢力圏内であることをフランスは承認する」と述べたとリッベントロップは後になって主張している。また彼はチェコスロヴァキア大統領エミール・ハーハを文字通り恫喝して、ボヘミア・モラヴィア両地方をドイツ保護領とすることに成功した(1939年)。 リッベントロップの経歴の中でも重要な外交案件は、1939年8月23日の独ソ不可侵条約調印と、それに前後するポーランド侵攻時の外交攻勢であり、リッベントロップはここで中心的な役割を演じた。彼はヒトラーに対し、ポーランド侵攻を受けてイギリスが参戦することはないと力説していた。
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