第三帝国時代から現代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 09:38 UTC 版)
「マンハイム」の記事における「第三帝国時代から現代まで」の解説
第三帝国時代には、2,000人近いユダヤ住民が追放された。第二次世界大戦の空爆によってこの都市はほぼ完全に破壊し尽くされ、1945年にアメリカ軍に占領された。この都市の再建は困難なものであった。宮殿と水道塔が再建され、国民劇場は新しい場所に建設された。元の劇場跡地にはシラーと『幕間劇』の地の記念碑が建てられた。住宅難から多くの新しい住宅地が造成された。 1964年に市立病院が、ハイデルベルク大学の臨床医学部マンハイムのネッカーキャンパスとなった。1967年にマンハイムは大学都市となった。 1960年代後半には、市内に工場があるBASF社の手により、ライン川の本流と放水路の間の三角州に80ヘクタールに及ぶ巨大な廃棄物処理場が作られた。処分場は三角州をコンクリート堤防で囲んで作った人工島であり、BASF社から出る廃棄物などを向こう60年間にわたり埋め立て処理する計画となっていた。 1975年、ルイーゼン公園とヘルツォーゲンリート公園での連邦庭園祭は最高潮に達した。これに伴い、大規模な建築物が次々に建設された。電信塔やライン川の2本の橋が建設され、プランケンは歩行者専用道路となった。新しいローゼンガルテン(コングレス・センター)が完成し、ケーブルカーがマンハイム上空を走った。1980年代から90年代も大型建設プロジェクトが続いた。プラネタリウム、文化ホールの拡張、ライス博物館、市庁舎、新しい5月マーケットの施設、シナゴーグ、モスク、技術と労働の博物館、カール・ベンツ・シュタディオン(スタジアム)などがオープンした。 マンハイムの経済的繁栄は近過去の工業系企業の受け入れにあった。この都市は工業から脱却しサービス業への転換を図った。この都市で最も高いヴィクトリア高層ビル2001の建設がその典型的な例である。 2007年の建都400年を念頭に、2000年からさらに建設工事が進められた。Sバーン(マンハイム操車場駅)に接続するSAPアリーナ、歩行者専用道となったブレイテ・シュトラーセの補修工事、旧見本市会場の改造、市電の新路線シャフヴァイデ線などが建設された。
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