第三帝国の敗北
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1945年4月23日、ゲーリング帝国元帥はヒトラーに対する反逆を疑われ、空軍司令官をはじめとする一切の官職を剥奪された。ヒトラーはゲーリングの後任の空軍総司令官にグライムを任ずることに決定し、彼に赤軍(ソ連軍)包囲下のベルリンの総統防空壕に出頭することを命じた。 グライムがベルリンに向かうことを聞き、ライチュは同道を志願した。1945年4月26日、ライチュとグライムは、グライム自身が操縦するフィーゼラーFi156シュトルヒに乗って赤軍が包囲するベルリンに向ったが、赤軍の激しい砲撃のなか、装甲車からの砲撃弾がグライムの脚に命中して大怪我を負わせ、グライムが操縦不能となったため、ライチュはグライムの肩越しに操縦桿を握り、ガソリンが漏れていつ爆発してもおかしくないシュトルヒを操縦してベルリン市内まで飛んだ。ベルリン市内上空まで到達し、ブランデンブルク門そばのティーアガルテンにヨハン・バウアーによって設けられていた促成滑走路への強行着陸に成功した。重傷のグライムを背負ってブランデンブルク門を抜けたところでドイツ軍トラックに拾われ、総統地下壕に向かった。 グライムはすぐに総統防空壕の医務室に運ばれ、ヒトラーの侍医である外科医のルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガーの治療を受けた。ヒトラーはグライムとライチュが生命の危険を冒してベルリンに来たことに感激し、ふたりを温かく迎えるとともに彼らの忠誠心を褒め称えた。ヒトラーは病室のグライムを見舞って、ゲーリングと親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーをナチ党と政府から追放したことを伝え、その場でグライムに空軍元帥の地位を与えるとともに、空軍総司令官に任命した。 グライムとライチュはベルリン陥落直前にあたる3日間をこの総統地下壕で過ごし、ヒトラー総統からグライム、ライチュともそれぞれ致死量の毒瓶を渡され、両人とも唯々諾々と受け取った。総統地下壕では当時のドイツ首脳陣にも会い、その中にはヒトラーの恋人であるエヴァ・ブラウンもいた。また、ゲッベルス夫人のマクダから先夫との息子であるハラルト(ドイツ語版)へ宛てた手紙を預かった。 グライムとライチュはそのまま総統防空壕にとどまってヒトラーに殉ずることを申し立てたが、ヒトラーは彼らにベルリンを脱出して空軍総司令部に帰還することを命じた。しかし、この頃には赤軍が完全にベルリンを包囲しているとともに制空権までも奪っていたから、新任の空軍総司令官グライムとライチュを迎えるために派遣された飛行機は次々に撃墜されてしまっていた。しかし、ある軍曹が操縦するアラドAr96高等練習機が奇跡的に赤軍の猛攻をかいくぐってベルリンに着陸することに成功した。4月28日、グライムとライチュの2人はこの飛行機に乗ってベルリンからの脱出に成功した。ティアガルテン北側から迫った赤軍は「ヒトラー脱出」を危惧し、猛烈な砲撃を加えたが失敗に終わった。 空軍総司令部に戻ったグライムは空軍の総力を挙げてベルリンのヒトラーを救援する命令を発したが、この頃には空軍の戦闘力は事実上壊滅しており、新総司令官グライムの命令が効力を発揮することはなかった。ライチュはヒムラーに会い、ヒムラーの「裏切り」を激しい言葉で難詰した。 ドイツが連合国に降伏するとまもなくライチュはグライムと共に米軍に捕われ、“重要犯罪人”として情報将校らに尋問・取調べを受けた。ヒトラーをどこかへ隠したのではないかと、時に別荘で丁重な扱いを受け、あるいは刑務所で棍棒に打たれたりした。総統地下壕を去る命令を受けた時の心象を聞かれた際、二人共に総統地下壕で死ねなかったことを悔やんでいること、ライチュは総統地下壕の前で祈りをささげたいことを答弁。後にグライム元帥は1945年5月24日に服毒自殺したが、ライチュは15ヶ月間の拘留の末に釈放された。「ドイツ人追放」を前に、ヒルシュベルクの実家の父は母・姉妹・姉妹の子供らを道連れに一家心中していた。
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