真名本の成立過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:25 UTC 版)
『曽我物語』の成立過程について、民俗学者たちは、書誌学的手法とは異なるアプローチで研究を行った。その成果は、現在ではおおよそ定説として受け入れられている。その概要はおおよそ次のようになる。 曽我兄弟の地元である箱根や伊豆地方では、仇討ちのあと哀れな死を遂げた兄弟の霊を鎮めるために、彼らの物語を巫女たちが語り広めた(「曽我語り」)。仏教の唱導思想や時宗・浄土宗の影響のもと、この原初的な兄弟の物語に、『六代勝事記』などから歴史的事象・伝承が採り入れられて曽我物語・真名本の原型となっていった。これはおおむね鎌倉時代の終わり頃までには成立した。その後も様々な文献資料から情報をとりこみながら発展し、現在伝わる「真名本」は15世紀の初頭までに形成された。 本文テキストの論考によるルーツ考証 荒木良雄(国文学者、1890年-1969年)は、『曽我物語』のなかで関東地方の地理的描写が精緻・正確であることに着目した。とりわけ箱根権現は詳細に述べられていることから、箱根山の僧が原初的な『曽我物語』(『原曽我物語(真名本)』)の作者であるとした。そして、成立年代を1361年〈康安元年〉から1388年〈嘉慶2年〉のあいだと推定した。 山西明(国文学者)は、真名本のなかに「今ノ世ニハ城殿ト申ス」とあることに着目した。「城殿」は安達泰盛(秋田城介)のことを指し、安達泰盛は霜月騒動(1285年〈弘安8年〉)で滅ぼされていることから、真名本の成立期はこれ以前であるとした。また、しばしば安達泰盛を称賛するような逸話が盛り込まれており、安達泰盛が上野国の統治を任されていたことから、真名本の成立には上野国の修験者たちが関わっているとした。 福田晃(国文学者、1932年 - )は、山西の説を批判的に継承した。安達泰盛は1285年の霜月騒動で討たれたものの、14世紀にはふたたび安達氏は秋田城介に任じられるようになっている。このため「一応の目安」として、1308年〈徳治3年〉から1333年〈元弘3年〉を成立期と推定した。 この「秋田城介」説について、村上学(1936年 - )は、真名本を作成する基になった資料に「今の城殿」という表現があった可能性を指摘し、『曽我物語』成立年代を推定する根拠としては弱いと批判した。 坂井孝一(歴史学者、1951年 - )は、『吾妻鏡』のなかの仇討ち関係の記録で『曽我物語』と重複する箇所が多数あることを指摘、『吾妻鏡』編者が原初的な曽我物語「真名本」を参照したと推定した。『吾妻鏡』の前半の成立時期については複数の説があり、早いものでは1265年〈文永2年〉から1273年〈文永10年〉の間、遅いものでは1303年〈嘉元元年〉から1306年〈嘉元4年〉とされているので、「真名本」がその原初形態はこの時点では存在していたということになる。 民俗学によるアプローチ 柳田国男(民俗学者、1875年-1962年)は、『曽我物語』の原初形態は、非業の最期を遂げた曽我兄弟に対する鎮魂にあるとした。この世に無念を残して死んだ兄弟は、放置しておくと怨霊となって禍いをもたらす。だがこれを御霊神として崇め、その悲嘆を現世の人間が共有することで、兄弟はかえって守護神となる。こうして、曽我兄弟の鎮魂のためその事績を伝説として継承するようになった。 折口信夫(民俗学者・国文学者、1887年-1953年)は、柳田の説を受け、曽我兄弟を鎮魂するための「語り」が興ったとした。最初期の語り手は箱根権現・伊豆山権現の瞽女(盲目の巫女)だったという。 角川源義(国文学者、1917年-1975年)は、柳田・折口の説を発展的に継承した。曽我兄弟の仇討ちが起きた当時の箱根山には、勧学院・延暦寺出身の覚明という僧がいた。角川は、仇討ち事件からまもなく、覚明によって「原曽我物語」というべき曽我物語の原型が編まれたのだろうと推測した。さらに13世紀の初めごろ、箱根・伊豆の宗教界を支配していた天台宗の安居院聖覚のもとで、「原曽我物語」に唱導的性格が加えられていった。そして、伊豆の密厳院において、現存する「真名本」の前期形態である「中間的真名本」に昇華した。その時期は、『吾妻鏡』の前半部の成立時期よりも早いと推定され、1265年から1273年頃までには出来上がっていたという。さらにこれを基にして、箱根の福田寺で時宗の思想が追加され、鎌倉時代の終わり頃に「真名本」全10巻が成立した、というのが角川の説である。 福田晃(国文学者、1932年 - )は、これらの諸説に影響を受け、原初形態としての「曽我語り」の存在を提唱した。「曽我語り」は、仇討ちの舞台になった富士山の裾野一帯で、口寄せを生業とする遊行巫女たちによって自然発生したという。「曽我語り」は、曽我兄弟が活動した神奈川県西部から静岡県東部にまたがる地域で語り広められながら、在地の修験僧や比丘尼によって唱導性や物語要素が取り込まれていった。これを担ったのが箱根権現・伊豆山権現や、箱根と関係の深い大磯(神奈川県)の高麗寺の修行僧・尼僧だったという。そして安居院のもとで「原真名本」10巻が誕生した。これを基に、14世紀後半から15世紀の初め頃までに、浄土宗名越派の僧によって、現存する「真名本」が完成したという。 これらの諸説は、成立年代や成立に関わる個人・地域の絞り込みなど細部についての小異はあるものの、在地の鎮魂的な「語り」が伊豆・箱根周辺の修験僧により筆写された「原曽我物語」になり、これが発展成長して『曽我物語』真名本が成立した、という大筋で、定説として広く受け入れられている。
※この「真名本の成立過程」の解説は、「曽我物語」の解説の一部です。
「真名本の成立過程」を含む「曽我物語」の記事については、「曽我物語」の概要を参照ください。
- 真名本の成立過程のページへのリンク