爆撃機迎撃戦・ヴィルデ・ザウ
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「フォッケウルフ Fw190」の記事における「爆撃機迎撃戦・ヴィルデ・ザウ」の解説
詳細は「ヴィルデ・ザウ」を参照 1940年6月より、ドイツ空軍はメッサーシュミットBf 110による夜間戦闘機部隊を編成した。ほどなく探照灯だけでなく、地上からのレーダー管制による夜間迎撃戦も行えるようになった。だが敵爆撃機の侵入は迎撃困難なほどに多く、ドイツ空軍の夜間戦闘機は少なすぎた。またレーダーを組み合わせて夜間戦闘機(主にBf 110)を正確に誘導・管制するヒンメルベット・システムは1943年7月、英軍のウィンドウにより麻痺させられていた。1943年7月24日のハンブルク迎撃戦では、791機の敵爆撃機のうち、わずか12機を撃墜できただけだった。 このため、1943年の春までに、ハヨ・ヘルマン少佐の発案により昼間迎撃用戦闘機、即ちFw 190および一部にBf 109を転用し、夜間迎撃にも使用することになった。これは同じ機材を昼間使い、さらに夜にも使うものであった。もちろん機体の損耗は激化し、整備員の巨大な負担が要求された。こうした迎撃部隊は「ヴィルデ・ザウ」(イノシシ迎撃隊 / あらくれイノシシ、Wilde Sau)と呼ばれた。防空戦術は簡単なもので、対象となりうる都市周辺に昼間戦闘機を空中待機・集合させ、さらに限られた探照灯とバッテリーを集中配備するものであった。機材により煌々と敵機を照らせば、昼間戦闘機でも夜間迎撃戦が可能であろうという考えであり、レーダーなどが配備される前の、素朴な夜間迎撃戦、「明るい夜間戦闘」を行う作戦であった。空襲による町の火災がさらに迎撃戦を助けたといった側面もある。また、探照灯によって上空一面の煙や雲への照射を行い、敵機影を浮かび上がらせるようなことも行っており、照明弾も用いられた。 4月のはじめには実験部隊として特別夜間戦闘機隊12機が編成された。この機材は第11戦闘航空団(JG11)からの借り物であったが訓練は続けられた。6月の末までには訓練を完了、ルール地方へ移動し、作戦を開始した。初の迎撃は1943年7月3日、ケルン北方50kmの地点で行われ。この際の参加戦力はFw 190 Aが5機、Bf 109 Gが7機である。この攻撃で敵爆撃機12機を撃墜したが、味方にも1機の損害を出した。他の部隊は20機の撃墜を報告しており、この夜の戦果の4割をこの実験航空隊が挙げた。この作戦結果は評価され、7月19日には第300戦闘航空団(JG300)ヘルマン航空団がボン近郊で発足し、戦力は30機であった。この部隊は「ヴィルデ・ザウ」と名付けられ、第I飛行隊と第II飛行隊はFw 190を、第III飛行隊はBf 109 Gを装備した。7月24日に英爆撃機791機によって行われたハンブルク空襲ではほとんど迎撃戦果をあげられず、敵の意図通りの攻撃を受けたドイツ空軍であったが、7月27日の空襲に対しては739機中17機、8月3日の空襲に対しては740機中30機を撃墜することに成功、この大部分はヴィルデ・ザウのFw 190によるものである。彼らの迎撃を容易にしたのは、ハンブルクの街の大火災により敵爆撃機が明るく照らし出されていたからであった。ヴィルデ・ザウはベルリンでの迎撃戦闘でも夜間戦闘機より効率の良い働きを見せ、8月頃にヘルマン少佐がまとめた報告書によれば、ヴィルデ・ザウは過去8週間で80数機の撃墜を報告している。参加したパイロットは55名であった。また、8月2日、ヘルマン少佐には柏葉騎士十字章が授与された。また新たに2つのヴィルデ・ザウ戦闘航空団が設立され、第30戦闘航空師団の下に、既存の第300戦闘航空団(JG300)、第301戦闘航空団(JG301)、第302戦闘航空団(JG302)、その他爆撃航空団と偵察飛行隊を含む態勢となった。これらは9月26日のゲーリングの命令により発足したが、Fw 190の数が足りず、Bf 109も多数装備される状態であった。だがヴィルデ・ザウは奮闘し、1943年秋には大きな戦果を見せた。無論全てがヴィルデ・ザウの戦闘機による戦果ではないが、8月にイギリス軍は4発重爆撃機を300機近く失っている。なお、通常の夜間戦闘機(主力はBf 110)もこの戦法を用いている。これはイギリス軍のウィンドウにより、従来の地上レーダーによる無線管制迎撃システム「ヒンメルベット」が通用しなくなったためである。 しかし1944年12月、ヴィルデ・ザウはアメリカ軍の昼間爆撃の迎撃という、当初のコンセプトとは正反対の任務を強いられた。夜間迎撃と昼間迎撃では戦法が全く異なり、パイロットも戦術の変更に完熟しないにもかかわらずこの投入は行われた。またこの状況下では昼間・夜間での機体の共有は不可能となった。さらに昼間戦闘であれば、夜間戦闘用に搭載された追跡用機上レーダー、FuG218「ネプトゥーン」などは不要であり、積載量に余裕の有るFw 190でなくともBf 109で十分と見なされ、代わりに多くのBf 109が補充された。夜間戦闘にはこうした追跡用の機材を搭載する余地が必要であり、Bf 110やMe 262などの夜間戦闘機型にもネプトゥーンは装備されている。配備の結果、9個飛行隊中、Fw 190を装備するものはJG300の第II飛行隊のみとなった。1944年6月以降はほとんどのFw 190が機上レーダーを降ろし、終戦の日まで戦い続けた。 1943年夏頃より、連合軍の爆撃機を迎撃するため、両翼下に1発ずつの21cm空対空ロケット弾W.Gr21の装備・運用が開始された(A-4/R6)。このW.Gr21は21cm BRとも呼ばれる。直径24cm、重量36kg、炸薬量9.5kg、飛翔速度は320m/sで時限信管を採用した。もとは陸戦用の21cm ネーベルベルファー41を改造した大型のもので、1943年後半から実戦投入され、Bf 109、Fw 190、Bf 110、Me 410といった他の戦闘機でも運用された。直撃もしくは至近弾でも威力は大きかったが、双発機であるBf 110はともかく、単発機に搭載した場合は相当に飛行性能が低下した。さらに新型・小型のロケット弾でありMe 262にも搭載された、R4Mが存在する。これを積載した場合も、やはり敵戦闘機との空戦が困難となるほど飛行性能が低下したという。 そのほか主翼下に20mmまたは30mm機関砲を内蔵するゴンドラを装備するなど、火力増強を志向した改修型も見られた。
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