歌人・国文学者としての活動
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「井上通泰」の記事における「歌人・国文学者としての活動」の解説
井上家に養子となったころに文学に目覚め、東大予科には和歌の道に開花し国文学者、歌人として名声を覇していた。森鴎外(森林太郎)は同窓であったが、通泰の影響を受けて文学の道に入った。彼が文学に傾倒したきっかけは実父・松岡操の影響が強い。操は播州・辻川の代々医師の出で、医業のかたわら儒学、漢学、国学にも秀でていた。姫路では漢学の私塾の主任教諭に迎えられ、明治初年には播磨の故郷辻川に帰っている。通泰が井上家へ養子に出されたのは、生家が生活に困窮していたことが一因であった。江戸時代から明治になり、英語主流の教育が流行する中で漢学を学ぶ者も少なくなり、操が学者の常として、生活のことなどあまり考えず極めて困窮していたことがあった。 通泰は医科大学卒業後、一時郷里に帰り姫路病院で眼科医長を務めた後、岡山医専の教授として赴任、岡山の地で後の歌人としての基盤を確固たるものにしたようである。岡山時代に通泰は、藤井高尚(岡山出身、本居宣長門下の高弟として知られ、江戸時代後期の代表的国学者であり歌人である)に興味を抱きその事跡を丹念に追い、1910年(明治43年)に『藤井高尚伝』を出版している。岡山時代の道泰の弟子の一人に正宗白鳥の弟の正宗敦夫がいる。敦夫は兄に代わり地元で家業の小間物屋を継ぎ、その傍ら通泰に師事し、在野にありながら後に『万葉集総索引』、『日本古典全集』『蕃山全集』などを編纂して国文学会に多大の貢献をし、1952年(昭和27年)にノートルダム清心女子大学教授に就任している。岡山での通泰は、吉備史談会会長など和歌や郷土史、国学等の中心的人物として過ごした。 岡山医専教授を辞した後、井上家を継いで田舎医者になることなく、東京で私立眼科医院を開業する。これは通泰と結婚した井上家の娘マサが、出産のために辻川に帰省していた時に身重のまま急死したこと、通泰が姫路病院に赴任する直前に再婚して井上家との関係が疎遠になったことも一因である。その後も、通泰は井上家の血筋が絶えないよう、井上家の縁者から養子をとり、井上家を継がそうと努力したようであるが駄目だったようである。 弟の柳田国男は「通泰は家のことはなにもかんがえないで世のなかのことばかりかんがえている。交際がひろくおおざっぱで国士の風格があった」と書いている。 森鴎外とは、森邸の観潮楼歌会などに出席するなど懇親を深めた。鴎外は通泰を東京大学の文学部文学博士に推すが、医業が本分との理由で辞退した。鴎外の縁で小出粲や大口鯛二などの宮中歌人と近くなり、1906年(明治39年)には歌会「常磐会」を結成する。同会はのちに山縣有朋をはじめとする大物も参加し、盛況を呈した。1907年(明治40年)御歌所寄人。1916年から1922年(大正5年から11年)までは宮内省と文部省の嘱託として『明治天皇御集』の編纂に携わった。1920年(大正9年)宮中顧問官。1926年(大正15年)に還暦を迎えるとこれを期に医業を畳み、以後は歌道と国文学研究に専心していった。1938年(昭和13年)12月9日、貴族院勅選議員に勅任される。議員在職のまま1941年(昭和16年)8月15日死去、満77歳。 上代国文学の分野においては、『風土記』について考察した『風土記新考』、同郷の江戸時代後期の国学者藤井高尚について綴った『藤井高尚伝』をはじめ、維新後初の試みとなった万葉集全歌の注釈『万葉集新考』などを遺している。 また、天神真楊流柔術を井上敬太郎から学んだ。
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