歌人としてデビュー
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1954年(昭和29年)、早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)に入学した。山田太一とは同級だった。早稲田大学短歌会に入る。寺山は12歳から13歳頃から短歌を詠み始めたというが、熱を入れて短歌を詠み始めるきっかけとなったのが短歌研究1954年4月号に掲載された、一般からの公募から選ばれ第一回五十首詠で特選となった中城ふみ子の「乳房喪失」であった。中城の作品は歌壇で大きな反響を生み、第二回の五十首詠の公募には第一回の約2倍の約800名からの応募があった。中城の短歌は歌壇の主に若手から強い支持を受けたが、寺山もまた中城の短歌に感動し、短歌を詠む意欲を高めた。 寺山は短歌研究の第二回五十首詠に「父還せ」と題して応募した。短歌研究編集長の中井英夫は寺山の作品を特選とした。後に中井英夫は自らのことを「いいものをいち早く見てとる眼を持っていてほとんど誤らない」と、自負を述べている。中央歌壇では無名であった中城ふみ子、寺山修司という稀有な才能を見い出したのは、名編集者中井英夫の慧眼あったればこそであった。 中井英夫は特選とした寺山修司の「父還せ」の発表に際して、多くの配慮をした。まず題名を「チェホフ祭」とし、既存歌壇からの反発などを考慮して17首を削り、短歌研究1954年11月号に第二回五十首詠特選として発表した。寺山は短歌研究1954年12月号に「火の継走」と題した入選者の抱負を発表している。その中で、 僕に短歌へのパッショネイトな再認識と決意を与えてくれたのはどんな歌論でもなくて、中城ふみ子の作品であった。 と書いている。 中城ふみ子の「乳房喪失」は、既存歌壇からの激しい反発を浴びた。一方寺山の「チェホフ祭」は当初、比較的反発は少なかった。しかしまもなく寺山は激しい批判、反発に晒されることになる。寺山は俳句の世界でも注目を浴びていた。寺山の短歌が中村草田男、西東三鬼らの俳句作品の模倣であるとの批判が、俳句界から上がったのである。楠本憲吉は寺山の短歌に対して「俳句はクロスワードパズルではない」と、激しい反発を露わにし、寺山のことを「模倣小僧」と揶揄する声が上がった。実際、中村草田男のよく知られた俳句を短歌として引き写したかのような作品もあって、批判を受けることはやむを得なかった。模倣問題が明るみに出ると、俳句界から始まった批判は歌壇にも広まり、袋叩きの様相を呈するようになった。 寺山を第二回短歌研究五十首詠特選とした中井英夫は、歌壇からの批判に真の意味での新人を欲しない、守旧的な体質を見た。中井は寺山擁護の論陣を張った。中井は写実を基本とする既存短歌のあり方に疑問を持たない、歌壇に激しい不満を抱いていた。乳がんで死を目前とした中城ふみ子の不幸の演技性を帯びる短歌、まだ十代のみずみずしい青春ドラマのような寺山修司の短歌は、作品としては極めて大きな違いがあるものの、ともに平板な日常詠をよしとした既存短歌の世界からの極めて大きな飛躍であったという面において、同じ方向性を持っていた。中井にとって生命力を失いつつあった写実詠を基本とした既存短歌に対するアンチテーゼとして、寺山修司の短歌は守っていかねばならないものであった。 寺山の短歌は、当初から寺山本人自身を短歌に託すというよりも、あくまで自己表現の一手段として使いこなす傾向が顕著であった。そのため、短歌を自らの感情を増幅させ、変換させたフィクションの世界として創り上げていった。寺山は短歌による文壇デビュー以降、評論、詩、演劇、映像などに多彩な才能を開花させていくが、寺山にとっては別ジャンルの媒体ではなく、同時に繰り広げられていく世界のものであった。狭いひとつのジャンルに留まることなく、寺山自身のいわば寺山ワールドを様々な形で繰り広げていくのが寺山の芸術の大きな特徴であり、後に「職業は寺山修司です」と自称した寺山は、コラージュ、モンタージュ等の技法を駆使し、事実と虚構が入り混じる世界を構築していった。 1955年、19歳の寺山はすでに ほんとに自分に誠実であるためには、どんな手段でもとっていいたいことをいうべきだ。そこになんかの形で修飾や風刺や、演技ということが入ってくるんで、そういうものを見ると目の色変えてポーズだなんてけなすのは滑稽だと思う。彼らにはほんとにいいたいことがないってことじゃないか…… と語っている。 「チェホフ祭」で第二回「短歌研究」新人賞を受賞する。 混合性腎臓炎で社会保険中央総合病院に入院。1955年(昭和30年)、ネフローゼと診断されて長期入院となり、翌年、在学1年足らずで退学、生活保護を受ける。この時代の輸血技術は洗練されたものではなかったが、当時としては唯一の治療法であった。また、前述の説明を医師から受けた寺山は、この頃から自身の死を意識し始め、友人の横尾忠則に「長くは生きられない」ともらしていたと言う。そして、実際これが晩年の肝硬変を引き起こしたと言われている。
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