歌人としての活動
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2002年から永田和宏が主宰していた短歌結社『塔』に参加し、様々なコンクールに応募を開始すると同時に頭角を表すようになり、まもなく現代歌人協会主催の全国短歌大会の選者賞や全日本短歌大会日本歌人クラブ賞を始めとする多くの賞を受賞した。当時、参加していた『塔』の2002年の結社誌「十代・二十代歌人特集」では17歳の注目の歌人として短歌と共に紹介されている。2004年には同志社女子大学主催の高校生短歌コンクールのSEITO百人一首の入選作品をまとめた『ピクルスの気持ち』に掲載され晃洋書房から出版された。 19歳の時、岡井隆が主宰していた未来短歌会や、様々な歌人が開催する歌会への参加を経て、今野寿美の誘いで三枝昂之主宰のりとむ短歌会に所属した。 武蔵高校卒業後もいじめによって負わされた後遺症に苦しまされたが、入院や通院をしながら早稲田大学人間科学部の通信制に通い卒業した。大学生時代は短歌についての研究を行い、卒業論文も前衛短歌で知られる寺山修司についてであった。2010年には現代短歌評論賞の最終候補に選ばれている。 大学卒業後は、書店のアルバイトや研究機関の事務の契約社員など非正規雇用で働きながら短歌の創作を続けていた。2014年に第5回角川全国短歌大賞準賞とNHK全国短歌大会の第1回近藤芳美賞の選者賞(岡井隆選)を受賞。2015年、朝日歌壇賞や全日本短歌大会毎日新聞社賞を受賞。翌年、2016年にはNHK全国短歌大会にて作品が特選に選ばれ、また全日本短歌大会で2回目の日本歌人クラブ賞を受賞した。2017年に2度目となる近藤芳美賞選者賞を受賞。2017年1月18日の『朝日新聞』夕刊連載の『あるきだす言葉たち』にて『模索の果て』が掲載される。
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歌人としての活動
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京都大学在学中に短歌を始め、高安国世に師事した。初期の歌風は前衛短歌の影響を色濃く受け、時に口語も生かした青春歌や科学者的な世界把握を持ち味とした。後にはそれを昇華し、身辺に取材した平明なものに変化してきている。師の影響から新仮名での作歌を行っていたが、2008年より旧仮名に転向した。朝日歌壇、南日本新聞歌壇選者、歌会始詠進歌選者、角川短歌賞選考委員なども務め、「短歌合わせ鏡の説」(『表現の喫水』)に代表される明晰な理論家としても現代歌壇の中心に位置している。2010年に妻河野裕子が病没した後は、家族生活の思い出を描いた随筆も発表し、広い読者を得ている。
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歌人としての活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/24 16:29 UTC 版)
妻は甲府の素封家である坂田家出身の正代。忠愛と正代は眼科医で歌人、柳田国男の実兄でもある井上通泰に歌結社「南天荘」の門人で、毎年上京して例会に参加した。忠愛・正代は甲府においても大正年間に佐佐木信綱「竹柏会」の甲府支部を地元歌人らと支え、自らも短歌結社「山梨鴬蛙会」「高砂会」を主催した。歌集として戦後の1959年に次女の淑子が刊行した『楓木抄』がある。 忠愛の和歌は日々の生活を詠んだ歌のほか、1939年(昭和14年)1月に広瀬久忠が山梨県出身者として初めて平沼内閣における大臣(厚生大臣)に就任した際には「国のためつくしゝいさをあらはれていまし大臣とあふかれぬらむ」と詠み、1940年7月に同じく山梨県出身者の小林一三が第2次近衛内閣の商工大臣に就任した際には「常ならむ時をときとて大臣にと召されしきみのすかた雄ゝしも」と、世辞に関する歌も詠んでいる
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