歌人としての木喰
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木喰は歌人としても知られ、生涯に渡り多くの和歌を読んでいる。木喰の和歌は後年に多く詠まれ、類歌・重複歌も存在するが、2008年時点で約560首が確認されている。 木喰の和歌は、天明元年(1781年)7月7日の年記を持つ自身像背面に記された「皆人の心にきさし白蓮花花はきちてもなねはのこらむ」が初見とされる。天明元年5月に木喰は信濃長久保において弟子の白道と別れ、同年5月には佐渡島へ渡っている。終見は文化5年(1808年)に甲斐善光寺に納めた画軸の26首とされる。 木喰の歌集は7点が確認されており、名号和歌を記した書画も存在する。木喰の歌集の初見は天明2年(1782年)12月8日に佐渡で編まれた『集堂帳』で、22首を収める。寛政8年(1798年)1月6日には長崎で歌集が編まれたが、これは表題がなく、柳宗悦により『青表紙歌集』と名付けられた。35首を収める。寛政12年(1800年)5月には遠江国で『心願』が編まれる。これはいろは唄の各文字を初句の初めに置いた和歌が含まれ、88首が納められている。 享和2年(1802年)2月21日には甲斐国丸畑に四国堂を建立した際に『四国道心願鏡』が編まれ、四国堂の縁起・自伝に添えた和歌7首と、建立に協力した「拾三人講中」に与えた和歌5首の12首が収められている。同年同月日には加持祈祷の修法・呪文や真言を記した『懺悔経諸鏡』が著され、10首の和歌が収められている。享和3年(1803年)閏1月12日には越後国長岡の青柳與清(清右衛門)家滞在中に『心願集歌』が編まれ、観音経の終わりの25文字を初句の初めにおいた25首が収められている。同年3月10日には同じ青柳家で廻国の行願十八大願を記した『木喰うきよ風りふわさん』が著され、14首の和歌が収められている。
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