歌人の道へとは? わかりやすく解説

歌人の道へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 05:10 UTC 版)

小田観螢」の記事における「歌人の道へ」の解説

一方で文学関心高まっており、小樽最古和歌結社小樽興風会」に入会したことをきっかけに、歌人となった北海道文芸誌加え若山牧水の『創作』、太田水穂の『潮音』にも出詠し、歌人として次第認められ始めた1911年明治44年8月教員仲間十勝岳登山中に遭難し10日目奇跡的に救助された。この遭難で、歌人としてさらに脚光を浴びることなった。観はこの遭難最中ですら、「火を焚けど背(そ)びら冷たくふりてまどろむ間なく夜はあけにけり」「氷雨ふるこごし岩根深山鳥(みやまどり巣ごもり鳴けば涙しくだる」と短歌詠んでいた。夜もクマ襲撃避けての上夜を明かしつつ、歌を詠んだ。この遭難まつわる連作は、後に第1歌集『隠り沼』に収録された。 1916年大正5年)、富良野小学校訓導校長となったこの頃には妻との間に3人の娘をもうけていたが、翌1917年大正6年)に、妻が急性肺炎により急逝した。観学校傍らで、遺された3人の幼い娘を育てたが、その苦境最中にも短歌への情熱を失うことはなく、慟哭ともいえる連作作った1919年大正8年)、山梨歌人である米倉久子再婚歌集陰り沼』を発行し全国的な評判と共に多く人々涙を誘った1923年大正14年)、当時名門である小樽中学北海道小樽潮陵高等学校)に大抜擢されて、小樽わたった同年両親死別。また山梨出身久子北海道環境厳しかったため、静養のために単身山梨戻り、観子供たち抱えつつ、妻と別居生活を送ることとなった1930年昭和5年)、短歌誌『新墾にいはり)』を創刊し後進育成にも力を入れた1938年昭和13年2月久子重病報せ届いた。観子を連れて山梨駆けつけたものの、それも空しく久子死去した。観前妻後妻それぞれの間の計5人の子供を、男手一つ育てた。これが「逆境歌人」と呼ばれる所以である。 後に『新墾』の同人3度目の妻として迎え、生活も安定し多く歌集出版した

※この「歌人の道へ」の解説は、「小田観螢」の解説の一部です。
「歌人の道へ」を含む「小田観螢」の記事については、「小田観螢」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「歌人の道へ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  歌人の道へのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「歌人の道へ」の関連用語

1
小田観螢 百科事典
4% |||||

検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



歌人の道へのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの小田観螢 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS