歌人の道へ
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一方では文学の関心も高まっており、小樽最古の和歌の結社「小樽興風会」に入会したことをきっかけに、歌人となった。北海道の文芸誌に加え、若山牧水の『創作』、太田水穂の『潮音』にも出詠し、歌人として次第に認められ始めた。 1911年(明治44年)8月、教員仲間と十勝岳に登山中に遭難し、10日目に奇跡的に救助された。この遭難で、歌人としてさらに脚光を浴びることなった。観螢はこの遭難の最中ですら、「火を焚けど背(そ)びら冷たく霧ふりてまどろむ間なく夜はあけにけり」「氷雨ふるこごし岩根に深山鳥(みやまどり)巣ごもり鳴けば涙しくだる」と短歌を詠んでいた。夜もクマの襲撃を避けて木の上で夜を明かしつつ、歌を詠んだ。この遭難にまつわる連作は、後に第1歌集『隠り沼』に収録された。 1916年(大正5年)、富良野の鳥沼小学校の訓導兼校長となった。この頃には妻との間に3人の娘をもうけていたが、翌1917年(大正6年)に、妻が急性肺炎により急逝した。観螢は学校の傍らで、遺された3人の幼い娘を育てたが、その苦境の最中にも短歌への情熱を失うことはなく、慟哭ともいえる連作を作った。1919年(大正8年)、山梨の歌人である米倉久子と再婚。歌集『陰り沼』を発行し、全国的な評判と共に、多くの人々の涙を誘った。 1923年(大正14年)、当時の名門である小樽中学(北海道小樽潮陵高等学校)に大抜擢されて、小樽へわたった。同年に両親と死別。また山梨出身の久子は北海道の環境が厳しかったため、静養のために単身で山梨に戻り、観螢は子供たちを抱えつつ、妻と別居生活を送ることとなった。1930年(昭和5年)、短歌誌『新墾(にいはり)』を創刊し、後進の育成にも力を入れた。 1938年(昭和13年)2月、久子の重病の報せが届いた。観螢は子を連れて山梨を駆けつけたものの、それも空しく久子は死去した。観螢は前妻と後妻、それぞれの間の計5人の子供を、男手一つで育てた。これが「逆境の歌人」と呼ばれる所以である。 後に『新墾』の同人を3度目の妻として迎え、生活も安定し、多くの歌集を出版した。
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