既存歌壇からの激しい反発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 06:13 UTC 版)
「中城ふみ子」の記事における「既存歌壇からの激しい反発」の解説
「短歌研究」五十首応募の一位入選によって全国歌壇にデビューした中城ふみ子は、当初、歌壇から激しい反発と困惑に見舞われた。前述のように批判としてはまず、「ポーズの過剰」が問題視された。ポーズの過剰と並んで既存歌壇の受け入れが難しかったのは、愛や性を大胆に詠み込んだ作風であった。それは死の直前まで愛に生きようとしたふみ子の生きざまともリンクして、当時の多くの歌人たちが振り回されることになった。 既存歌壇の論調の中には、ふみ子の短歌が広く歌壇で話題になっている現象を一過性のものであると見なし、棚上げしようとしたり、「短歌研究」が中城ふみ子を話題にしていること自体を問題視する意見も出された。そして中城ふみ子の個人的資質をやり玉に挙げる論調も現れる。尾山篤二郎は、「たとへば貴方の息子さんの配偶に「乳房喪失」の著者の中城ふみ子のやうな人を選べ得ますか……私にはとても出来ない」、「斯ういふ野卑な人間が作った歌を、あからさまに天日に晒したヂャナリストの頭脳を私は疑ひたい」、「斯ういふ蛆虫よりも穢らはしい歌集」、「悍怒狼戻な悪女」などと、口を極めてふみ子やその作品のことを罵った。 この尾山による個人攻撃の域に達している中城ふみ子批判は若手歌人からの激しい反発を受ける。若手歌人たちは一斉にふみ子擁護の論陣を張り、尾山の論調、中でもその時代錯誤性を厳しく批判した。結局尾山の中城ふみ子批判は逆に支持の意見を呼び寄せる結果となり、完全な逆効果となった。 その一方でふみ子の登場について、釈迢空が待望し、中井英夫が後押しをした「女歌」勃興の流れの一環として批判する意見も現れた。中井はふみ子が全国歌壇に登場する以前から女流歌人の活躍に期待を寄せていて、1954年2月、3月と「短歌研究」誌上で葛原妙子、森岡貞香ら、中井が期待をかけていた女流歌人の特集を組んでいた。そして4月号で「女歌」の典型ともいうべきふみ子がデビューを飾るのである。ライバル誌「短歌」も争うように女流歌人を積極的に取り上げていた。そのような女流歌人の活躍にスポットライトが当たる現状に近藤芳美、山本友一らが批判した。その批判の中に当然、ふみ子の短歌についてもやり玉に挙げられていたのである。 近藤は未来に広がるものは健康な正常性の上に立つものであるとして、「清潔な知性に満ち」、「女だけが知る悲哀を情感として静かに湛えた」女性の歌が、「奇形児めいた流行的な「女歌」」に代わることを願うとしていた。一方、山本は、「マゾヒズムとも言へる潮流が女流歌人の間には奔放となって流れはじめてゐる」とした上で、「先頃物故した北海道の某女(ふみ子)の作品群などもジャーナリズムにもてはやされた理由が私にはどうしてもわからない」とし、女流歌人に「童女のごとき素朴さに立ち返る」ことを求め、「郷愁の様に素朴な清新さ」を望んだのである。 ふみ子に対しての当初の批判、非難については「戦後の女性歌人で中城ふみ子ほど叩かれた人はいない」との見方がある。その要因として、当時の男性側の価値観、道徳感から見ると認めがたいものを感じていたとしている。そして男性にとって許容できる女性像を見せている限りは認められていても、いったん男性社会に抗するはっきりとした自己主張を見せると、途端にバッシングの標的となるとの指摘がある。
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