東北・九州・北海道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 09:31 UTC 版)
3. 東北帝国大学(現在の東北大学) 4. 九州帝国大学(現在の九州大学) 5. 北海道帝国大学(現在の北海道大学) 帝国議会と政府との関係、資金面の問題、校舎建設の問題、前身となる高等教育機関と新設各帝国大学との関係から、この時期の帝国大学の設立経緯は複雑であり、盛岡藩出身で藩校作人館修文所で原敬と同級生だった佐藤昌介(札幌農学校最後の校長、東北帝国大学農科大学初代学長、北海道帝国大学初代総長)も関係している。また、この時期設立の帝大は全て地方名が大学名として採用され、その他の帝大が都市名を冠しているのとは対照的となっている。 1890年(明治23年)に帝国議会が成立したことにより、帝大設立のための多くの「建議案」が議会に提出された。ただし、建議案が採択されて「建議」となっても、これは大日本帝国憲法下で議院が政府に意思を示すことであり、法案ではないため法的拘束力はない。 京都帝国大学創立期の1898年に成立した第2次山縣有朋内閣の樺山資紀文相が、東北と九州にも帝国大学を設置したいと言明した。東北では第二高等学校がある宮城県に設置する意思が表明されたが、九州においては設置する県を明言しなかった。すると、官営八幡製鉄所がある福岡県と、古くから医学が盛んで第五高等学校医学部がある長崎県が、「50万円を寄付する用意がある」とそれぞれ言明。また、第五高等学校の本部がある熊本県は、土地の提供を申し出た。しかし、「寄付で設立されても運営費が捻出できない」と、帝国議会から消極論が出て両帝国大学の設立は見送りとなった。 1900年(明治33年)、第14帝国議会において、野党・政友会(伊藤博文総裁)によって「九州東北帝国大学設置建議案」および「北海道帝国大学設立建議案」が提出された。建議案は衆議院特別委員会にて可決され、東北・九州・北海道の各帝国大学設立の要求が議会から政府に表明された。しかし、野党案であったことや、建議に拘束力がなかったこと、1900-01年の日本は不況期であったことなどから、政府は消極姿勢であった。対して議会では、1901年(明治34年)「北海道帝国大学設立建議」、1902年(明治35年)「東北帝国大学設立建議」と重ねて採択が行われ、政府へ働きかけた。 1902年(明治35年)、第1次桂太郎内閣の菊地大麓文相(元東京帝大総長)が、「東京・京都以外に帝大は設立不要」とし、実用的な専門学校の設置案を提案した。衆議院解散で設置案は流れたが、九州帝大設置のために巨額の寄付を申し出ていた各県に専門の高等教育機関の設置が決まり、まず、国から150万円の予算を得て1903年(明治36年)に福岡県立福岡病院を基に京都帝国大学福岡医科大学が設立された。その後、1905年(明治38年)に長崎高等商業学校が、1906年(明治39年)に仙台高等工業学校、および、第五高等学校工学部を基に熊本高等工業学校が設置された。 1906年(明治39年)、京都帝大の設置に尽力し、高等教育機関の設置に前向きな西園寺公望を首相とする第1次西園寺内閣が成立した。同年6月には、札幌農学校を農科大学に昇格、新設予定の理工科大学と大学予科と合わせて「北海道帝国大学」とする案が文部省に陳情されたが、これは同時期に帝国大学設置を要望していた東北選出の代議士に反発された。この結果、札幌に新設予定だった理科大学を宮城県仙台市に設置することに変更し、札幌と仙台の分科大学を併せて帝国大学とする折衷案を政府に要求することになった。西園寺内閣は、1907年度(明治40年度)予算に東北帝国大学(仙台市)および九州帝国大学(福岡市)の設置予算を組み込んだが、日露戦争後の不況期に入ったことを理由に板谷蔵相によって予算は削減され、設立は絶望的となった。このとき、古河鉱業副社長であった原敬内務大臣(盛岡藩盛岡城外・本宮村、現:岩手県盛岡市本宮出身)が、古河財閥(初代の古河市兵衛が盛岡の親戚筋で働いていた時期あり)の二代目オーナーの古河虎之助(当時17歳)を説得し、両帝国大学設立のための資金を献納させることを取り付け、予算削減から17日目に両帝国大学の設置が閣議決定された。日露戦争による好況(1904-05年)によって財を成した古河財閥は、一方で足尾銅山の鉱毒による公害問題を抱えており、公のために寄付をすることで世論の沈静化を願った。 1907年(明治40年)9月には、東北帝国大学が設置され、札幌農学校は東北帝国大学農科大学(札幌区)に昇格した。勅令第236号では、東北帝国大学の設置場所は仙台と定められていたが、この時点の仙台では一切の校舎その他建造物が存在しない状態であった。当時の帝国大学令では、帝国大学は複数の分科大学により運営される必要があったが、東北帝国大学の場合は当面の間札幌の農科大学のみで完結させる必要があり、特例として農科大学のみで運営することを前提とした東北帝国大学農科大学官制を施行することとなった。 1911年1月には、東北帝国大学理科大学(仙台市)が新設され、名実ともに東北帝国大学の本部が仙台に置かれるようになった。同時期には九州帝国大学本部の設置および九州帝国大学工科大学の新設もなされた(両者とも福岡市)。同年4月には、京都帝国大学福岡医科大学が移管されて九州帝国大学医科大学となった。 これらの大学設置には、地元からの寄付金等も用いられたが、1907年度から5年間で約106万円に上った古河財閥の寄付金が用いられた(内訳は建築費が987,739円、事務費用69,137円)。古河財閥からの校舎建設資金は、東北帝大分が、農科大学135,519円、理科大学244,170円、九州帝大分が工科大学608,050円であった。北海道大学のシンボルの一つであり、現在は文学部の研究室として使用されている古河記念講堂は、この資金を用いて建設されたものである。 1911年(明治44年)、3度目の「北海道帝国大学設立建議案」が議会で採択されたが、政府は消極的だった。しかし、第一次世界大戦による好況(1915-18年)に入ると風向きが変わり、大学令公布に伴う各帝国大学の分科大学制から学部制への改組に先立って、1918年(大正7年)4月、札幌区所在の東北帝国大学農科大学を東北帝大から分離して北海道帝国大学が設立された。同年、原敬内閣の下、「高等諸学校創設及拡張計画」が帝国議会で可決され、東京帝国大学・京都帝国大学に各々経済学部が、東北帝国大学・九州帝国大学には各々法文学部が設置された。 なお、六大都市の大阪市(125万人)や名古屋市(43万人)、あるいは、広島市(16万人)や金沢市(13万人)に比べて人口が少ない仙台市(12万人)、札幌区(10万人)、福岡市(9.5万人)に政策的な理由で帝国大学が設置されたため、他の大都市では帝国大学設置運動がその後も続いた(→都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位#1920年(大正9年)の人口順位)。
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