東アジア・スラヴ世界における国際秩序の再編
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「近世における世界の一体化」の記事における「東アジア・スラヴ世界における国際秩序の再編」の解説
17世紀前半はまた、ユーラシアの東と北では国際秩序の再編がなされた時期でもあった。 中国大陸では、1616年にヌルハチによって統一された女真族が満州の地に後金王朝(後の清朝)を建国、つづくホンタイジが内モンゴルを併合して、順治帝の1644年には李自成を追って呉三桂を先導に北京に入城し、明にかわって中国支配を開始した。続く康煕帝は中国史上最高の名君の一人と称えられる。彼は文化の振興を図り、三藩の乱を鎮め、鄭氏政権を滅ぼし台湾を支配し、漢民族を支配下においた。また康熙帝は1697年にジュンガルのガルダン・ハーンを滅ぼし、モンゴル高原を支配下に治め、さらにロシアとの間に対等条約であるネルチンスク条約(1689年)を結ぶなどの対外活動も充実させて、安定した治世を実現した。ロシアとの交渉はイエズス会宣教師が行い、交渉用語にはラテン語が用いられた。清朝は、公式条文中の「両国は—」ではじまる文言をことごとく「中国は—」とする一方的な命令口調に改竄し、対内的には朝貢関係としてこれを理解させた。朝鮮王国は、1636年に清に攻撃されてその服属国となり、その後厳しい海禁政策を採用した。琉球王国も1609年に薩摩藩に服属したが、中国との朝貢貿易はつづいた。 日本では関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が1603年に江戸幕府をひらき、将軍と配下の大名による幕藩体制のもとで長い統一時代に入った。幕府は、海外からの物資の安定供給を目指して、対馬藩を通じた朝鮮国との和平や、薩摩藩への琉球王国への影響力の行使の承認、松前藩へのアイヌとの貿易の独占権の承認など、東アジア地域との外交を進めたほか、ポルトガルとスペイン、オランダ、イギリスのヨーロッパ諸国との貿易や、日本人による朱印船貿易を推進した。 朱印船貿易を通じて、多くの日本人が東南アジアに進出して各地に「日本町」を建設した。しかし、朱印船貿易の結果として浪人が働き口を求めて東南アジアに移住し、ヨーロッパ諸国や東南アジア諸国の傭兵として利用されるようになり、戦火が朱印船貿易に及ぶことで幕府の権威が侵される危険性が高まった。また、朱印船貿易や南蛮貿易の進展によって、日本国内におけるキリシタンの人口が増え、幕藩体制を乱す邪教とみなされた。 その結果、幕府の権威を守り、カトリックの禁教を徹底する観点から1610年代以降、幕府は貿易や出入国の管理・統制を強化していき、1610年代にはヨーロッパ諸国の船の来航が長崎と平戸に限定され、1620年代にはスペイン船の来航とフィリピンへの日本人への渡航が禁じられた。1630年代半ばには、中国人やヨーロッパ諸国、東南アジアとの貿易を管理していた長崎奉行への命令(いわゆる鎖国令)により、日本人の東南アジアや台湾方面への渡航と、日本町在住の日本人の帰国が禁じられ、また、中国人を長崎に集住させ、ポルトガル人を長崎の出島に収容させた。島原の乱の翌年の1639年には、幕府はポルトガル人の来航を禁じ、1641年にはオランダ人が出島に収容された。 その結果として、幕藩体制の下では、長崎と対馬、薩摩、松前の四つの拠点が、貿易や外交、国防の拠点となった。また、幕府は明から清への交代を背景に、日本を「中華」として位置づけ、朝鮮通信使や琉球からの謝恩使・慶賀使、オランダ商館長の江戸への参府などを、幕府への朝貢使節のようなものと見なし、幕府の権力・権威の正当化に利用した。貿易・外交・出入国などにおいて、幕府がとった国際関係に関する政策は、18世紀末以降、ロシアやアメリカ合衆国などの通商要求を拒否する観点から、「鎖国」と認識されるようになった。 幕府は17世紀後半には文治政治に転じ、5代将軍徳川綱吉の時代には都市・農村ともに著しい経済成長を遂げる。新田開発が盛んとなり、国内航路も整備されて大坂を中心とする国内市場が形成され、上方を中心に元禄文化と呼ばれる町人文化が花開いた。 ロシアでは、内乱や農民反乱、ポーランド王国の侵入などの動乱をへて、ミハイル・ロマノフが1613年にロマノフ王朝を建て、正教を奉じる北方の専制国家として領主制支配を強めて、シベリアに領土を広げていった。当初は西欧と深いかかわりを持たなかったロシアだったが、17世紀末ころにピョートル1世があらわれると、西欧化政策を推進する一方、康煕帝治下の清朝との間に上述のネルチンスク条約を結んで国境を画定した。
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