杉山なかの献体とは? わかりやすく解説

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杉山なかの献体

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:54 UTC 版)

地方病 (日本住血吸虫症)」の記事における「杉山なかの献体」の解説

石和(現:笛吹市在住医師である吉岡順作は、この奇病関心持ち患者詳細に診察し近代西洋医学的な究明試みた最初期医師である。この病気発病初期腹痛を伴う血便黄疸があり、やがて肝硬変起こし最終的に腹水たまって死に至る。これらの臨床症状から考えると、肝臓脾臓疾患原因があることは明らかであった。しかし、酒を飲まない小児であっても発病するので、アルコール肝硬変とは明らかに異なっていた。 吉岡患者発生する地域分布図(地図)を作成したところ、笛吹川支流流域水路沿った形で罹患者分布していることが分かった。その上病気のある地区では、川遊びをする子供たちに対してきれいだからといってホタルを捕ると、腹が太鼓のように膨れて死んでしまう」、「セキレイ捕まえると腹が膨れて死ぬ」などの戒めタブー迷信残っていた。 これらのことから吉岡は、この奇病河川、あるいはそのもの何らかの形で関係しているであろうことを突き止めた。しかしそれでも病気の原因は分からなかった。万策尽きた吉岡はついに、死亡した患者病理解剖して、病変直接確かめしかない決断する。しかし当時の人々にとって解剖はおろか手術によって開腹することですら世にも恐ろしいことと思われており、普段威勢のよい男性でも、死後とはいえ自分の体を解剖されることには極度に脅えたといわれている。実際に山梨県では明治中期当時において解剖事例皆無であった1897年明治30年5月下旬1人末期状態の女性患者献体申し出た甲府石和の間にある水田地帯西山梨郡清田村(現:甲府市向町在住農婦杉山なか(54歳)である。なかは40歳過ぎた頃から体調異変来たし地方病特有の病状進行し50歳を過ぎると典型的な水腫症状を起こした穿刺による腹水除去吉岡医師によって数回試みられたが効果がなく、やがて手の施しようのない状態に陥った。 なかは「順作先生、私の腹の中にある地方病何が原因のでしょうか」と尋ねたが、原因分からない吉岡は「肝臓原因があることは間違いないのだが、詳しいことは開腹して肝臓直接確かめしかないのです」と答えるしかなかった。 「私はこの新し御世生まれ合わせながら、不幸にもこの難病にかかり、多数医師仁術を給わったが、病勢いよいよ加わり、ついに起き上がることもできないようになり、露命また旦夕に迫る。私は齢50過ぎて遺憾はないが、まだこの世報いる志を果たしていない。願うところはこの身を解剖し、その病因探求して他日資料供せられることを得られるのなら、私は死して瞑目できましょう。」 死体解剖御願杉山なか。明治30年1897年5月30日原文 吉岡献身的な治療信頼寄せてたなかは、なぜ甲州の民ばかりこのようなむごい病に苦しまなけれならないのかと病を恨みつつも、この病気の原因究明役立ててほしいと、自ら死後の解剖希望することを家族告げる。 最初驚いた家族であったが、なかの切実な気持ち汲んで同意し吉岡伝えた当時としては生前患者が自ら解剖申し出ることは滅多にないことであり、あまりのことに涙した吉岡であったが、家族と共に彼女の願い聞き取り文章にし、1897年明治30年5月30日付けで県病院(現:山梨県立中央病院)宛に『死体解剖御願(おんねがい)』を親族署名とともに提出した献体申し出受けた病院6代院長下平用彩と県医師会は、驚きながらも杉山家訪ね、命を救えなかった医療貧困直接なかに詫び涙ながらに何度も感謝言葉をなかに伝えた杉山なかは、解剖願い提出した6日後の6月5日亡くなり遺言通り6月6日午後2時より、県病院長下平用彩医師執刀の下、杉山家菩提寺である盛岩寺せいがんじ、現:甲府市向町地図)の境内で、吉岡ら4名の助手従え解剖が行われた。 今日でいう篤志献体であるこの解剖は、地方病患者のという以前に、山梨県下では初の事例となる病理解剖であったため、甲府近隣から57名もの医師開業医参加したこの様子は、翌々日6月8日山梨日日新聞紙面において、東山梨東八医師会会員総代吉岡順作本人による、長文弔辞とともに報じられている。 遺体から肝臓胆管脾臓腸の一部摘出されアルコール漬けにされ、参加した医師たちは肥大した肝臓の表面に白い斑点多数点在するのを確認した通常の肝硬変異なり肝臓の表面には白色帯びた繊維様のものが付着し肥大化した門脈には、多数結塞部位認められた。この門脈肥大化にこそ、この疾患原因解明への手掛かりがあった。 盛岩寺屋外解剖参加した医師中に後年この奇病原因解明大きな役割を果たすこととなる、若き日三神三朗医師がいた。 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 死体解剖御願(複筆)。実物現存するのか不明で、この写しもいつ誰が筆写したもの分からない吉岡順作による弔辞明治30年1897年6月8日山梨日日新聞。 「杉山なか紀徳碑」除幕式明治45年1912年6月上旬撮影石碑から向かって左側に、なかの長女ぎん、(1人おいて)三女やす、四女はま、ぎんの娘きぬ。三女やすの右上口髭たくわえた男性吉岡順作

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