日本郵船撤退と傭船時代とは? わかりやすく解説

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日本郵船撤退と傭船時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 22:57 UTC 版)

比羅夫丸」の記事における「日本郵船撤退と傭船時代」の解説

比羅夫丸田村丸就航1908年明治41年当時は、日本郵船青森 - 函館 - 室蘭間の“三港連絡航路”が1日1往復定期便運航中で、更に青森 - 函館には臨時夜行便1往復設定もあり、2社競合航路であった。しかし、帝国鉄道庁国鉄連絡船運賃は各等とも郵船より1割ほど安く、そのうえ所要時間が2時間短く、船も新しく蒸気タービン静かなため、旅客鉄道庁連絡船集中し郵船単独時代1906年明治39年)度の旅客輸送人員が96359名であったのに対し国鉄連絡船開設初年度1908年明治41年)度の国鉄連絡船旅客輸送人員157440名と急増していた。しかし、比羅夫丸型2隻は、冬季交代入渠したため就航一冬目は1船1往復減便したが、これでは鉄道連絡船としての使命全うできないうえ、競合する郵船に客が流れるため、就航二冬目半ば1910年明治43年1月25日青函4時間運航可能な高速船ということで、長崎三菱合資会社三菱造船所1909年明治42年7月6日竣工しその後日本の各港を巡回していた帝国海事協会義勇うめが香丸(3,273総トン最大速力21.315ノット)を傭船し、2月1日より就航させて通年定期便2往復運航とした。なおこの船は有事の際、海軍補助艦として使う目的国民献金建造され国産タービン三菱造船所パーソンス反動タービン搭載としては前年竣工姉妹船さくら丸次いで2番であった。この3隻体制効果もあり、1910年明治43年)度の旅客輸送人員223524名に、国営化5年後1913年大正2年)度には314571名と順調にその数を伸ばしていた。なお、帝国鉄道庁国営航路開設初年1908年明治41年12月5日をもって鉄道院となっている。 一方貨物は、従来からの日本郵船利用する本州北海道間の永年商業取引関係もあり、大口荷主依然郵船使い鉄道庁国鉄連絡船小口貨物僅かに扱う程度で、1908年明治41年)度の貨物輸送量は8,503トンに留まった。このため国鉄一部貨物運賃割引行って集荷努めたが、郵船側もそれに対抗するなど、かつての三菱共同運輸無制限競争様相呈してきたため、逓信省仲介で、臨時船青森入港制限しないこと、同社所有地を当時国鉄である鉄道院買い上げること、などの条件で、1910年明治43年3月日本郵船は同航路から撤退した。これにより、従来郵船輸送していた貨物国鉄輸送することになり、貨物輸送量は、1909年明治42年)度の2万421トンから、1910年明治43年)度の72625トンへと一挙に3.5倍に増加義勇うめが香丸ではその任に不向きなため、1911年明治44年1月同船関釜航路転出させ、代わりに関釜航路傭船であったロシア船の会下山丸(えげさんまる)(1,462総トン)を転入させ、3隻体制維持した比羅夫丸型も郵船撤退後1910年明治43年5月には最速の1往復4時15分運航となっていたが、会下山丸は青森 - 函館間5時間要したため、会下山丸で運航する所要時間5時間夜行便の5便・6便を設定し1911年明治44年3月末からはこれを甲便(青森1時発 函館6時着)・乙便(函館1時発 青森6時着)と改称して客貨輻輳時の臨時便として運航した。また通常比羅夫丸型で運航する4時15分便も、比羅夫丸入渠等で会下山丸が運航する場合は5時間運航とした。 このような状況で、比羅夫丸型にも貨物満載せざるを得なくなったが、後部船艙手小荷物用としていたため、貨物前部船艙積載、これにより船首喫水増大し後部バラストタンク注水してバランス調整したが、結局全体喫水増大してしまい、正甲板後部両舷の3等舷門水面近くになり、荒天時旅客乗降苦慮することとなった貨物輸送量はその後北海道内鉄道網充実もあり、不況下にも前年割れすることなく1914年大正3年)度には154716トン4年倍増していた。この間阪鶴鉄道発注し、同鉄道国有化後1908年明治41年6月竣工後は、山陰沿岸を行く舞鶴 - 境 間航路運航され第二阪鶴丸(864.9総トン)を、1912年明治45年3月の同航路廃止後関釜航路での使用経て同年6月青函航路転入させ、会下山共々甲便・乙便に充当し貨物輸送に当たらせ4隻目とし、同船阿波国共同汽船賃貸し1914年大正3年7月からは、万成源丸(886.94総トン)を貨物船として傭船して 4隻体制継続し増加する貨物需要かろうじて対応していた。 なお国青函連絡船開設以来青森側の所管であったが、1913年大正2年5月5日以って函館側の鉄道院北海道鉄道管理局函館運輸事務所所管となり、以来1988年昭和63年)の終航まで函館所管続いた

※この「日本郵船撤退と傭船時代」の解説は、「比羅夫丸」の解説の一部です。
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