日本郵船撤退と傭船時代
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比羅夫丸・田村丸就航の1908年(明治41年)当時は、日本郵船の青森 - 函館 - 室蘭間の“三港連絡航路”が1日1往復定期便運航中で、更に青森 - 函館には臨時夜行便1往復の設定もあり、2社競合航路であった。しかし、帝国鉄道庁(国鉄)連絡船の運賃は各等とも郵船より1割ほど安く、そのうえ所要時間が2時間も短く、船も新しく、蒸気タービンで静かなため、旅客は鉄道庁連絡船に集中し、郵船単独時代の1906年(明治39年)度の旅客輸送人員が9万6359名であったのに対し、国鉄連絡船開設初年度の1908年(明治41年)度の国鉄連絡船の旅客輸送人員は15万7440名と急増していた。しかし、比羅夫丸型2隻は、冬季に交代で入渠したため、就航一冬目は1船1往復に減便したが、これでは鉄道連絡船としての使命を全うできないうえ、競合する郵船に客が流れるため、就航二冬目半ばの1910年(明治43年)1月25日、青函間4時間運航可能な高速船ということで、長崎の三菱合資会社三菱造船所で1909年(明治42年)7月6日竣工し、その後、日本の各港を巡回していた帝国海事協会の義勇艦うめが香丸(3,273総トン、最大速力21.315ノット)を傭船し、2月1日より就航させて通年定期便2往復運航とした。なおこの船は有事の際、海軍の補助艦として使う目的で国民の献金で建造され、国産タービン(三菱造船所製パーソンス式反動タービン)搭載としては前年竣工の姉妹船さくら丸に次いで2番目であった。この3隻体制の効果もあり、1910年(明治43年)度の旅客輸送人員は22万3524名に、国営化5年後の1913年(大正2年)度には31万4571名と順調にその数を伸ばしていた。なお、帝国鉄道庁は国営航路開設初年の1908年(明治41年)12月5日をもって鉄道院となっている。 一方貨物は、従来からの日本郵船を利用する本州と北海道間の永年の商業取引関係もあり、大口荷主は依然郵船を使い、鉄道庁(国鉄)連絡船は小口貨物を僅かに扱う程度で、1908年(明治41年)度の貨物輸送量は8,503トンに留まった。このため、国鉄も一部貨物の運賃割引を行って集荷に努めたが、郵船側もそれに対抗するなど、かつての三菱対共同運輸の無制限競争の様相を呈してきたため、逓信省の仲介で、臨時船の青森入港を制限しないこと、同社所有地を当時の国鉄である鉄道院が買い上げること、などの条件で、1910年(明治43年)3月、日本郵船は同航路から撤退した。これにより、従来郵船が輸送していた貨物も国鉄が輸送することになり、貨物輸送量は、1909年(明治42年)度の2万421トンから、1910年(明治43年)度の7万2625トンへと一挙に3.5倍に増加、義勇艦うめが香丸ではその任に不向きなため、1911年(明治44年)1月、同船を関釜航路へ転出させ、代わりに関釜航路で傭船中であった元ロシア船の会下山丸(えげさんまる)(1,462総トン)を転入させ、3隻体制を維持した。比羅夫丸型も郵船撤退後の1910年(明治43年)5月には最速の1往復が4時間15分運航となっていたが、会下山丸は青森 - 函館間5時間を要したため、会下山丸で運航する所要時間5時間の夜行便の5便・6便を設定し、1911年(明治44年)3月末からはこれを甲便(青森1時発 函館6時着)・乙便(函館1時発 青森6時着)と改称して客貨輻輳時の臨時便として運航した。また通常は比羅夫丸型で運航する4時間15分便も、比羅夫丸型入渠等で会下山丸が運航する場合は5時間運航とした。 このような状況で、比羅夫丸型にも貨物を満載せざるを得なくなったが、後部船艙は手小荷物用としていたため、貨物は前部船艙へ積載、これにより船首喫水が増大し、後部バラストタンクに注水してバランスを調整したが、結局全体の喫水が増大してしまい、正甲板後部両舷の3等舷門が水面近くになり、荒天時の旅客乗降に苦慮することとなった。 貨物輸送量はその後も北海道内の鉄道網の充実もあり、不況下にも前年割れすることなく、1914年(大正3年)度には15万4716トンと4年で倍増していた。この間、阪鶴鉄道が発注し、同鉄道国有化後の1908年(明治41年)6月竣工後は、山陰沿岸を行く舞鶴 - 境 間航路で運航された第二阪鶴丸(864.9総トン)を、1912年(明治45年)3月の同航路廃止後、関釜航路での使用を経て、同年6月青函航路へ転入させ、会下山丸共々甲便・乙便に充当して貨物輸送に当たらせ4隻目とし、同船を阿波国共同汽船へ賃貸した1914年(大正3年)7月からは、万成源丸(886.94総トン)を貨物船として傭船して 4隻体制を継続し、増加する貨物需要にかろうじて対応していた。 なお国鉄青函連絡船は開設以来青森側の所管であったが、1913年(大正2年)5月5日 を以って函館側の鉄道院北海道鉄道管理局函館運輸事務所所管となり、以来1988年(昭和63年)の終航まで函館側所管が続いた。
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