日本郵船の内南洋航路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/26 04:38 UTC 版)
第一次世界大戦の結果、南洋諸島は国際連盟の委任統治領として日本に託された。1922年に南洋庁が開設されると諸島の開発は一層進められ、人員や物資の往来は増加する傾向にあった。日本郵船が日本と南洋諸島を結ぶ航路を開設したのは、委任統治領になる前の1917年のことである。航路は神戸あるいは横浜を起点に、小笠原諸島父島、サイパン島、トラック諸島、ポナペ、クサイを経てジャルート環礁に至る東廻線と、サイパン島から分かれてテニアン島、ロタ島、ヤップ島、パラオを経てオランダ領東インドのダバオ、マナドに至る西廻線の二航路で構成されていた。東廻線は、日本領内のみを航行する航路としては、おそらく最長距離を行く航路である。その後、往来の増加に対応して諸島の東西を結ぶ航路などが順次開設されていった。この航路では、往路では食糧や燃料、生活必需品、各種機械が運ばれ、帰途には諸島産出のコプラ、砂糖、マニラ麻などが日本に運ばれていった。諸島に住む人々にとっては、この航路の船舶は一種の「宝船」であり、来航するたびに歓迎していた。
※この「日本郵船の内南洋航路」の解説は、「サイパン丸」の解説の一部です。
「日本郵船の内南洋航路」を含む「サイパン丸」の記事については、「サイパン丸」の概要を参照ください。
- 日本郵船の内南洋航路のページへのリンク