日本のジャズの歴史
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日本の初期のジャズは、アメリカ人のジャズバンドとフィリピン人のジャズバンドによる日本での海外公演によって一般化した。フィリピン人はアメリカ占領軍を通じてフィリピンでジャズという音楽になじんでいた。ハタノ・オーケストラがしばしば日本最初のジャズバンドだと言われている。ハタノ・オーケストラは東京音楽学校の卒業生たちにより1912年に結成された。彼らはサンフランシスコへの船旅の中で一部の音楽を吸収したが、主としてはダンスバンドであった。1920年代初頭、大阪と神戸の繁栄した歓楽街を中心に、フィリピン人の演奏を基に生まれた日本ジャズの実践が現れ始めた。1924年には大阪市にすでに20のダンスホールがあり、そこで日本生まれのジャズミュージシャンはプロとして演奏できる初めての機会を得た。トランペット奏者の南里文雄 (1910 - 1975) は、演奏スタイルによって国際的に賞賛された最初の日本人である。1929年に南里は上海にわたりテディ・ウェザーフォードと共演し、そして1932年にはアメリカツアーを行った。日本に帰国後、南里はアメリカ式のスウィングバンドである「南里文雄とホットペッパーズ」として何枚もレコードを出した。 ダンスミュージックとしての初期のジャズにおける「アメリカらしさ」と人気は、保守的な日本のエリートたちに懸念を抱かせた。1927年になると、大阪府はダンスホールの閉鎖につながるような厳しい取り締まりを実施した。多くの若いミュージシャンはジャズの拠点を東京に移した。そこでは大手レコード会社のお抱えジャズオーケストラに職を見つけた者もいた。1930年代、人気作曲家である服部良一と杉井幸一ははっきりと日本風のジャズを作ることで、批判されがちなジャズの性質を克服しようとした。彼らは古い日本の民謡や演劇の歌にジャズのタッチを加えた作品を作った。さらに日本をテーマとし、よく知られている伝統的なメロディにも似た新しいジャズソングを作った。1933年には、現在まで続く中で日本最古のジャズ喫茶・ちぐさが横浜市にオープンした。それから、ジャズ喫茶はダンスホールに代わって人気を博し、熱心な聴衆を相手に最新のジャズレコードをかけ、ときおりライブ演奏を催すこともあった。 一方で服部の曲は、論争を呼ぶこともあり、特に顕著なのが、服部が中野忠晴リズムボーイズに提供した「タリナイ・ソング」(1940年)である。当時日本で広まっていた食料や資材の不足に対する風刺を題材とした同楽曲は、政府検閲官たちの怒りを買い、即座に発売禁止処分を受けた。 第二次世界大戦中ジャズは敵性音楽とされ、日本では禁止されていたものの、ジャズの人気は衰えず、禁止は完全には成功しなかった。ジャズ風の歌曲は、時には愛国的な歌詞を伴って、引き続き演奏された。第二次世界大戦後、連合国による占領 (1945 - 1952) は、日本人のジャズミュージシャンが現れる新たなきっかけとなった。アメリカ軍の兵士たちが故郷で聴いた音楽を熱望したからである。1948年、ピアニストの穐吉敏子 (1929 - ) はプロのジャズミュージシャンをめざして上京した。コージーカルテット結成後、軍楽隊のリーダーとして横浜に赴任していたハンプトン・ホーズが彼女の存在に気づく。さらに、彼女はオスカー・ピーターソンから注目されるようになった。1956年に穐吉はボストンのバークリー音楽学校で学び、その後バップピアニストとして、またビッグバンドのリーダーとして世界的な成功を収めた 。 1950年代の終わりには日本のジャズシーンが再び栄え、続く数十年間で活発なフリー・ジャズが最大の成長を遂げた。評論家の副島輝人は、1969年を日本のフリージャズの転機になった年だとしている。ドラマーの富樫雅彦、ギタリストの高柳昌行、ピアニストの山下洋輔と佐藤允彦、サクソフォニストの阿部薫、ベーシストの吉沢元治、トランペッターの沖至などの音楽家が重要な役割を果たしたからである。。穐吉敏子のコージーカルテットの一員だった渡辺貞夫も、国際的な評判を得ている。このほかにも、川崎燎、中村照夫、タイガー大越、小曽根真といったジャズプレイヤーもまた、国際的な評判を得ている。彼らの多くはアメリカで広くツアーを行い、演奏や教育のためにアメリカに移住した人もいた 。
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