新興キネマ〜大映〜松竹時代
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「若原雅夫」の記事における「新興キネマ〜大映〜松竹時代」の解説
新興キネマ入社後、若原の初出演映画は、1940年2月、真山くみ子の相手役として主人公に抜擢された『荒野の妻』で、初出演初主役として評判となった。 新興キネマに所属中の約2年2か月間、21本の映画に出演。その後大映に代わってからは、『誰か故郷を想わざる』『南進女性』『真人間』『南国絵巻』『愛の花束』『春遠からじ』『母よ嘆く勿れ』などに、主役、準主役で出演した。 さらに、大映時代では『風雪の春』、『別れも楽し』、戦中最後の映画『最後の帰郷』。一方、戦後最初の出演映画で、且つ、戦後初の日本で初めて接吻のシーンを描いた話題作『或る夜の接吻』、『修道院の花嫁』、『花咲く家族』、『君かと思ひて』などに主演。以後、『土曜夫人』、昭和初期に繁栄していた製糸産業の内部問題として女性の生き方を取り上げた『時の貞操』、『誰に恋せん』では、水戸光子、原節子、高峰三枝子と組んで、品格のある二枚目としての評価が定着し、着実にスターの道を登って行った。 高峰は1948年、上原謙と『懐かしのブルース』で共演した。映画はこの後も音楽映画として続く予定だったが、次の相手役が変更になったことについて、高峰の自著にこんなことを書いている。「歌う映画では私の方が主演ですから、先輩の上原さんは(ご自分が主役にならないことに)ご不満のようで、「別れのタンゴ」ではお断りを受けたのです。そこで、相手役を誰にするかマネージャーと相談して、前年に「誰に恋せん」で共演した大映のスターの若原雅夫さんを引き抜くことにした」と。。 この『別れのタンゴ』も、レコードと共にヒットしたので、翌年に予定していた『想い出のボレロ』、さらに『情熱のルムバ』と、若原とのコンビが続いた。 若原は 昭和24年(1949年)、5年契約で松竹の専属となり、作品に恵まれて、年間10数本の映画に出演。高峰三枝子との共演では『別れのタンゴ』『情熱のルムバ』など音楽映画3作、永井隆のベストセラー『長崎の鐘』、木下恵介監督がパリ滞在中に学んだ前衛作品に影響された『カルメン純情す』、三島由紀夫の話題作『夏子の冒険』、中村登監督の『旅路』などが評判を得た。この中で、1953年1月封切りの『夏子の冒険』は、2つの記録を残した。物語の概要は、若く美人で良家の娘で主人公の夏子は、突然「世の中が嫌になった。修道院へ行く」と宣言。北海道の修道院へ行く船で、井田毅と言う目の輝いた若者と知り合いになる。話を聞くうちに彼の熊退治に興味を持ち、修道院行きを止めて、毅と共に熊の仇討をする…と言うストーリー。 この映画の2つの記録とは、先ず、『夏子の冒険』が、前年の1952年、日本で初めて製作された総天然色映画『カルメン故郷に帰る』に続く2作目のカラー映画として、評判を得たこと。第2 は物語の面白さ、人気俳優陣の出演などの効果で大きな話題となり、1952年度の日本配給総収入ランキング第4位の大ヒットとなった。【注:映画は1953年1月に封切られたが、会計年度が3月までのため、1952年度作品として扱われた。】 因みに『夏子の冒険』の配給収入額は1億0718万円。2位から4位までの収入額は、僅かに100万円づつの僅差だった。 永井隆の『長崎の鐘』は、長崎の被爆体験をまとめた随筆で、当時のGHQの検閲によりすぐには出版の許可が下りなかったが、1949年に出版が許可され、ベストセラーとなった。映画は、1950年、松竹が永井の亡くなる10ヶ月前に『長崎の鐘』として完成した作品となった。映画で若原は主人公の永井隆を演じた。原爆が投下された長崎の様子、最愛の妻を失い、自身も大学で研究中に被爆。その中で、結核予防のために学生や長崎市民等に行ったレントゲン撮影。さらに、放射能による自身の白血病との闘いの中で、人類愛に満ちた生涯を送った本人を好演した。『長崎の鐘』は、松竹が一般公開前に、永井のために特別上映した。そのことについて、永井隆の子息、誠一(映画では誠)は、自身の著書で、「「長崎の鐘」は1950年8月に完成した。公開に先立ち、松竹は一般公開の前に永井の自宅「如己堂」の前庭に特製の布スクリーンを張って、野外試写会を催された。寝たままで鑑賞した永井は、映し出された長崎の情景や、永井自身、家族らの言動を見つめ、松竹映画の厚情と、思いやりに感謝した」と綴っている。
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