新興キネマから大映へ
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「市川右太衛門」の記事における「新興キネマから大映へ」の解説
1937年(昭和12年)、新興キネマ京都太秦撮影所に移籍、看板俳優として『国姓爺合戦』『大村益次郎』などの大作に主演したほか、同社でも『旗本退屈男』シリーズの一本『宝の山に入る退屈男』に主演した。しかし、この作品で一旦『旗本退屈男』シリーズが打ち止めとなる。軍当局から「非常時にふさわしくない」との横槍が入ったためだった。『退屈男』を禁じられた右太衛門は『無法松の一生』の映画化に執心していたが、この配役は当初から阪東妻三郎に決まっていたため、稲垣浩監督が説得して断念させた。稲垣は代わる主演作として、以前から右太衛門のためにと構想していた山本有三の『不惜身命』を会社側に推し、情報局からも協力を得た。ところが「原作者の山本が社会主義者である」との理由で、ここでも軍部から横槍が入り、企画は頓挫を余儀なくされた。稲垣は「製作していたら『無法松』以上の作品が作れたろう」と惜しんでいる。 1942年(昭和17年)、戦時統合により、新興キネマは日活、大都映画と合併して大映に改組した。右太衛門はこれにより大映に移籍し、終戦までに8本の時代劇映画に出演した。
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新興キネマから大映へ
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1938年(昭和13年)2月、今井映画製作所が東宝映画京都撮影所に吸収されたのを機に同年5月、新興キネマ京都撮影所に入社し、約10年に及んだ三流キネマや弱小プロダクション遍歴に終止符を打つ。以後も多くの作品に主演・助演を務める。 1942年(昭和17年)、新興キネマは大映に統合されるが、羅門は引き続き京都撮影所に在籍し、以後も阪東妻三郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、嵐寛寿郎といった四大スターと多数の作品で共演し、戦争末期まで活躍した。 戦後も1945年(昭和20年)9月公開の丸根賛太郎監督映画『狸の呉れた赤ん坊』等に出演していたが、後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から時代劇に厳しい制約が加えられたため、現代劇の出演を余儀なくされる。これまで時代劇を中心に活躍していた役者が慣れずにいる中、羅門は数本の作品で現代劇にも意欲を燃やした。ところが1946年(昭和21年)、立ち回り中に左眼を負傷してしまい、失明する。失明の原因については、メチルアルコールを呑んだためであるとも言われている。1952年(昭和27年)4月、サンフランシスコ平和条約が発効すると共に時代劇の制約も解け、羅門も再び時代劇に転向するが、1946年(昭和21年)公開の春原政久監督映画『狸になった和尚さん』を最後に主演作品が製作されておらず、既に脇役に回されていたが、それでも羅門は多数の作品で助演した。 しかし1962年(昭和37年)、失明がもとで健康を損ね、同年に出演した作品は木村恵吾監督映画『鉄砲安の生涯』のみである。1963年(昭和38年)、体調が優れない中、田中徳三監督映画『座頭市兇状旅』に出演していたが、同作を最後に姿を消した。出演作品は戦前169本、戦後113本を数える。
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