文学賞に対する批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 20:56 UTC 版)
多くの文学賞では受賞者に対して副賞として賞金が支払われるだけではなく、授賞する側に属する選考委員を委嘱される著名作家にも選考料などの名目で少なからぬ金額の謝礼が支払われ、概して賞の権威の高さと比例する形で謝礼も高額となり、選考会議にしても1日とはいえ長時間に渡る会議となり高級料亭での食事付きというものもある。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}そのため、文学賞の選考委員は著名作家の体のいいアルバイトと揶揄されることもある[要出典]。 高い権威を持つ文学賞になると選考委員という地位それ自体も文壇政治におけるポストのひとつに等しく、作家にとっても文芸の世界での自身の権威や発言力の向上にも繋がる。だがその反面、特に選考委員について任期は設けず出処進退は自ら弁えるべしという姿勢を取る賞(たとえば芥川賞の選考委員は無任期制である)では、一度委嘱されればその後は自発的に退任するか、あるいは病気などで家族の意向という形で退任でもしない限り、亡くなるまでその地位に長年にわたり居続けることも可能であり、また高齢の大ベテランになると文壇・選考委員の重鎮としての存在感や発言力と裏腹に言動・選評が時代にそぐわないものになるばかりか、選考や賞自体の中長期的な方向性や究極的には賞の価値にまで悪影響を及ぼしてしまうことも起きかねず、そのような選考委員の高齢化や地位の長期独占は、時にその授賞選考などにも絡んで批判の対象となる。 また、各次選考過程において、各選考委員の専門分野・嗜好・思想・人間関係、その賞の前回以前の受賞作の傾向、出版社・編集部・編集者の事情・思惑・販売戦略、「後援」すなわちスポンサーの立場で賞イベントに関与する企業・団体の意向、候補者・応募者の話題性や関連業界との人脈などといった様々なバイアスが加えられることも少なくなく、関連する企業の商業的都合が優先されたり、文壇政治のパワーゲームの結果として授賞と作品の出来が必ずしも直結しなくなる場合もある。例えば、前回・前々回の受賞作から同じような作風の作品が続くと、新鮮味がないとして、受賞にマイナスにはたらくことがあったり、受賞作なしが続くと、主催者や選考委員の意向によって、受賞水準にやや不十分と判断された作品であっても受賞しやすくなることがある。また著者の話題性として、低年齢(史上最年少授賞)・家族・経歴・異分野での知名度(芸能人、文化人)などで左右される場合もある。 例えば直木賞では、主催者と強い関連を持つ文藝春秋の影響が色濃く、同社が数多くのベストセラーを手掛け強みを持つ歴史小説・時代小説・人情小説が有利と言われ実際に数多く授賞している一方で、企画・販売の実績が少なくノウハウに乏しい[独自研究?]SF・ミステリー・ファンタジーなどに授賞した事例は少なく総じて不利とされており、SF作家である筒井康隆は自身の直木賞落選の経緯を批判的に風刺した小説『大いなる助走』を執筆している。直木賞がSF・ファンタジー系統の作品に授与されたのは、第99回(1988年上半期)の景山民夫『遠い海から来たCOO』が唯一の事例である。 また、高い権威を持つ著名文学賞の場合、知名度や文壇での地位を求めて受賞を渇望する人物や、自身の作品に絶対の自信を持ち受賞を確信して疑わない性格の人物が、自身の作品の落選という事態に対して強い不満を示す場合もある。有名な例としては中原昌也が、第135回芥川賞の候補に『点滅……』がノミネートされながらも、実際の選考会議ではほとんど議論の俎上に上げられることもないまま1票も入らず落選した際、選考委員に対して雑誌『SPA』の誌上で猛烈な批判を繰り広げた一件が知られる。 他にも様々な文学賞や公募新人賞において、最終選考に残った作品や作家を巡って、特定の選考委員の熱烈な推薦で授賞が決まった、逆に特定の選考委員の個人的な猛反対の批判により落選となった、選考会議の場に全く取り上げられることも無く落選した、他にも選考を巡る対立で審査委員が辞任した、授賞から何年も経ってから主催者・選考委員・スポンサーなどの授賞する側と作家や新人など受賞した側との間に何らかの関係があったことが明らかになった、などという裏話やトラブルの類は枚挙に暇が無い。 また、その時々の選考委員の文学賞の意義や目的などに対する考え方の違いによって、候補作の文学的評価・完成度とは別に、受賞から外されたり外されなかったりする場合もある。例えば新人賞であれば、その新人賞としての役割を重視して、商業文芸誌に掲載された作品や、既に他の文学賞を受けた作家の作品、もしくは(文学以外の業績によるものであっても)既に世間に知られている人物の作品であれば、それだけの理由で、たとえその作品の出来の良さが認められていたとしても受賞対象外とされることがある。しかし、委員の顔ぶれが変わると、同じ賞であってもそうした作品に受賞させることもあり、委員によって基準が変わることが批判されることもある。 他にも、筒井が『大いなる助走』で槍玉に挙げていることであるが、文学賞の選考委員として名前が出る人物には多忙な売れっ子が多く、そのような時間的余裕の無い人物が果たしてきちんと候補作や最終選考の作品を全て読破しその内容を把握・分析して選考に参加しているのかということも度々取り沙汰されてきた疑念であり、著名作家の選考委員としての「名義貸し」や、出版社・スポンサーや選考委員の人脈・都合が優先された縁故授賞などと言った不明朗な選考や「出来レース」の噂も、その真偽は別として散見される。[独自研究?] もっともこれらの批判については、賞というものが選考委員という人間が決めるものである以上は根源的に抱えている問題であり、当然のことであるといえる部分もある。また、権威または知名度が高いとされる賞、特に芥川賞・直木賞については、しばしば選考当時に世評高かった作品や、後に大成した作家の作品の取りこぼしが批判されたり、反対に受賞に足らないとされる作品に受賞させたことが賞の権威や公平性を低下させ、ひいては日本の文学を揺らがせるとして批判されることもあるが、これに対してはそもそも文学賞に過度の期待を抱きすぎであるという声もある。
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